教会内の「因果応報」「公正世界仮説」は誰も救えない。 — 隠れキリスト者’s diary

サマリー
  • 「因果応報」「公正世界仮説」は、人間の目から見た「公平さ」を元にしている。
  • 「放蕩息子」の話のように、神は人間の目から見ると「不公平」なことをされる。しかし、それこそが「神の愛」の表れであるとも言える。
  • 「因果応報」を中心とする教会内部の教育論は「神の立場に立てない」という堕落性が現れた物ではないか。
  • 分派問題もこの問題が関わっているだろう。
  • 「因果応報」「公正世界仮説」は誰も救わない。救えない。

「因果応報」「公正世界仮説」とは

「因果応報」とは仏教の教えからくるもので、「人はよい行いをすればよい報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがある」*1ということ。

「公正世界仮説」とは、下記リンクが詳しく説明しているが、「因果応報」と同じく「人はよい行いをすればよい報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがある」というルールが「この世」では働いているという仮説である。

psychmuseum.jp

ヨブ記についての記事で取り上げましたが、「因果応報」という考えは「神の願い」から離れているとも考えられるのではないか。

kirisutosya.hatenablog.com

また、イエス様の有名なたとえ話である、ルカ15:11~32の「放蕩息子」の話を見ても、人間から見た「公平」を神は同じように重視されていないと言える。

ある人に二人の息子があった。ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産の中で私が頂く分をください』。そこで、父はその身代を二人に分けてやった。それから幾日もたたないうちに、弟は自分の物を全部取りまとめて遠いところへ行き、そこで放蕩に身を持ち崩して財産を使い果たした。何もかも浪費してしまった後、その地方にひどい飢饉があったので、彼は食べることにも窮し始めた。
 そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、誰もくれる人はなかった。そこで彼は本心に立ち返って言った、『父のところには食物の有り余っている雇い人が大勢いるのに、私はここで飢えて死のうとしている。立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、私は天に対しても、あなたに向かっても、罪を犯しました。もう、あなたの息子と呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇い人の一人同様にしてください』。
 そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼を認め、哀れに思って走りより、その首を抱いて接吻した。息子は父に言った、『父よ、私は天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたの息子と呼ばれる資格はありません』。しかし父はしもべ達に言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、履物を足に履かせなさい。また、肥えた子牛を引いてきて屠りなさい。食べて楽しもうではないか。この息子が死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったから』。それから祝宴が始まった。
 ところが、兄は畑にいたが、帰ってきて家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえたので、一人のしもべを呼んで、『一体、これは何事なのか』と尋ねた。しもべは答えた、『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事に迎えたというので、父上が肥えた子牛を屠らせなさったのです』。兄はおこって家に入ろうとしなかったので、父が出てきてなだめると、兄は父に向かって言った、『私は何ヵ年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友達と楽しむために子ヤギ一匹も下さったことがありません。それだのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰って来ると、そのために肥えた子牛を屠りなさいました』。
 すると父は言った、『子よ、あなたはいつも私と一緒にいるし、また私のものは全部あなたのものだ。しかし、このあなたの弟は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのにみつかったのだから、喜び祝うのは当たり前である。

教育現場における「公正世界仮説」

「教育」を支持する者は特にこの「公正世界仮説」を重要視していると言える。彼らは 「良き教育」を受けた者は「良い将来」が待っていると言う。信仰に関しても同じく、「良き教育」を受けた者、「良い家庭環境」で育った者が「良い2世」として育つと。

この仮説は、「逆の立場」の2世にも影響を及ぼす。これが恐ろしい。「道を外れた2世」は、「今まで教育をきちんと受けてこなかった」からだ、「家庭環境が悪い」からだ、、と言われるようになる。たとえ、そうでなかったとしても、「彼ら」は自身の支持する「教育」の重要性を守るため、手のひらを返したように「原因」を作る。

影響

影響は大きく2つあると考えられる。

1.セーフティ・ネットがない。機能しない。

本来「許し」という者が宗教の大きな成果物であるとも言えるのに、我が教会にはあまり見られない。TMが「許し・愛し・団結せよ」と言われているが、それを実践することができているのかは私たちが日々反省するべき大きなポイントだとも思う。

教会内、特に教育系にはびこる「因果応報」を中心とした考えは、一度道から外れてしまった者を「再び神の元へ帰す」という本来の使命よりも、「さらに突き放す」ことをしてしまう。

人間は過ちを犯す生きものである。そして、神は何度も人間に裏切られても許してくださったお方である。

2.「逆恨み野郎」が増える

「因果応報」を中心に育てられた2世の多くは「忠実に」その言葉を守っていくだろう。しかし、この世は理不尽なことで溢れている。たとえ、何一つ禁忌を冒さなかったとしても、悪いことは起きるのだ。まぁ、メシアさえもあれだけ良いことをされながら苦労の連続であったのだから当たり前なのであるが、「自分は違う」と思ってしまうのかもしれない。

「言われたことを守ってきたのに!」という理由で神を恨む者が多いと感じる。これは個人の問題でもあるが、「教育」による者だとも言える。「因果応報」を元にした教育は自分のケツも自分で吹けない「逆恨み野郎」しか産まない。

結論:「因果応報」では誰も救えない


Originally published at kirisutosya.hatenablog.com on January 29, 2016.

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