早くそうするべきだと君も言っていたわけだしね
こちらは「言葉に関するアドベントカレンダー」の21日目の記事です。昨日の記事は以下でした。
前回はどちらかと言うと抽象的な話でしたが、今日は具体的なTIPSというか、すぐに使える判断基準をシェアしたいと思います。
掲題の一文について、ぼくはこういった文は普段あまり書きません。
早くそうするべきだと君も言っていたわけだしね。
一見すると、とくに問題があるようには思えませんが、ぼくが引っかかるのは、この文の中に意図せず「くそ」「しね」という言葉が入っているからです。
もちろん、意図してそのように書いているわけではない、ということは誰が見てもわかるでしょうし、文脈から考えてもそんなところに引っかかる読者はほとんどいないかもしれませんが、それでもそれらの「あまり使いたいとは思えない言葉」が文中に存在していることは事実です。
ですからこういう場合には、それらのキーワード(=NGワード)を踏まない別の言い方を考えることになります。
早いうちにそうするべきだと君も言っていたわけだからね。
とくに長文を書く場合、意図せずNGワードが含まれてしまうことを100%避けることはできないでしょう。また、こうした判断基準というか、考え方がある種の言葉狩りのように、表現の自由やアウトプットのモチベーションを阻害してしまう可能性についても考えておく必要はあると思います。
しかし、そうした前提も踏まえつつ、ぼくが文章を書くときには「あ、NGワード入っちゃった」と気づいたら可能な範囲で削除できるように努めています。
このことで思い出すのは、以前に読んだピーター・バラカンさんの以下の本で、
マイケル・ムーアの映画『SiCKO』の邦題が「シッコ」だったことに触れて、「何だか汚いニュアンスを帯びたのはいろいろな意味で損だった」と書かれていたことです。
たしかに、文脈を想像すればそこに排泄物の意味などないことはわかりますが、とはいえ文章に比べてタイトルだけがひとり歩きしやすい邦題という分野において、「シッコ」に決めてしまったのはどうだったのか。話題になることを狙ったのかもしれないし、実際そうなる可能性もあったかもしれないですが、今となっては「こういうときこそ何重にもひねった奔放な邦題でキメてほしかった」という気もします。
「シッコ」が排泄物の意味ではない、という文脈を踏まえていても、日常的に日本語を話す人の頭にはそれがよぎらざるをえないと思います。それは「意識」以前の段階で生じる「反応」で、自覚的なコントロールが可能になる前に勝手に作動してしまうセンサーのようなものです。
前述のようなNGワードを書いているつもりがなくても、その文字列を見た読者の中ではやはり同様のセンサーが作動してしまうとぼくは考えているので、それに気づいたときにはなるべく外すように心がけています。