ゴルフ
こちらは「言葉に関するアドベントカレンダー」の18日目の記事です。昨日の記事は以下でした。
今日は抽象的な話です。
推敲をするときには、音感とヴィジュアルを拠りどころにしている、と以前の記事で書きました。
一方で、その推敲をする環境として、読むときのメディアをよく変える、ということも書きました。
ぼくはエディタ(Vim)で文章を書いていますが、推敲のための読み直しはエディタに限らず、PDFを見たり、紙を見たり、スマホからWebページ化したそれを眺めたりしているので、「うわ、ここタイポしてる」とか「ここ、テンが多いな・・」とか「これ平仮名にしたほうがいいな」みたいなことに気づいても、すぐには直せないことがよくあります。
そういうときにどうしているかと言うと、紙で見ているときはペンで赤字を入れますが、スマホで見ているときなどはわざわざメモ機能やアプリを立ち上げるのも面倒なので(というかそれをやると「音感」が途切れるので)、単に頭の中で「ここ直した方がいいな〜」とぼんやり呟くだけにとどめます。
え、それだとすぐ忘れちゃうんじゃない? 修正漏れにつながるのでは? と思う人もいるかもしれませんが、前者に対してはYesで、後者に対しては一応、Noです。
よほど印象的なミスならばともかく、推敲段階で気づくミスというのは大半がほんのわずかな違いに過ぎないので、ちょっと目を離したらすぐに「どこだっけ」と見失ってしまいますし、かつそれが案外たくさんあったりするので、メモを取っていなければ覚えておくことなんてできません。
ですから、忘れるかどうかと言ったら「Yes! もちろん忘れます!」という感じなのですが、同時に「ここ変だな、直したいな」と思う箇所は何回読んでもそう感じるもので、これ、本当にいつも同じ場所で引っかかります。
上述の「音感」の記事では、これを流しそうめんが竹筒の節に引っかかるようだと喩えましたが、別のイメージで喩えるなら、金属探知機で全身をスキャンしたら、いつも同じ箇所でセンサーが反応して、信号が点滅しながら音が鳴る、みたいな。そういう感じです。
何回読んでも、その箇所が点滅しながら「おい、ここ変だぞ」と知らせてくるので、場所を覚えておく必要なんてありません。ただ頭から順に、真面目に読んでいけばいいだけです。
しかしながら、推敲が難しいというか、面倒なのはここからで、変なのはわかったけど、どう変なのか、どう直したらいいのかまではわからないことも少なくありません。
たとえば、以下のような口語調の文があったとして、
ぼくもそう思ったんだけど、やめときました。
これだとちょっとぶっきらぼうに感じられるからといって、もうちょっと丁寧にするために以下のように変えたとします。
ぼくもそう思ったのですけど、やめておきました。
しかしこれだと、前半の「のですけど」がちょっとかしこまり過ぎかなと思って、以下のようにしたとします。
ぼくもそう思ったんですけど、やめておきました。
「のですけど」の「の」を「ん」にしただけですが、ちょっとフランクになりすぎた気がします。それで、もう少しだけ丁寧側に戻したいと思って以下のように変えたとします。
ぼくもそう思ったのですが、やめておきました。
はい、これでようやくしっくり来たとします。
ぼくの場合、推敲ってこういうふうに、「直しすぎ」を何度もくり返しながら、理想の文章とのズレをだんだん小さくしていく、みたいにやることが多いです。
で、これってゴルフのパッティングに似ているな、とよく思います。最終的な、理想の、しっくり来る文章はグリーン上の穴(カップ)で、そこにカランと落ちるまで、あっちに行ったりこっちに行ったり、オーバーしたりショートしたりしながら、何回も打ち直してようやくカップインさせるのが推敲という行為なのかなと。
いや、カップインするまで粘れればそれは幸運なことで、実際にはそこまで出来ない方が普通かもしれません。
一応、最大限カップに寄せられるように頑張るんだけど、時間や予算の制約がある中で、限られた打数でなんとかOKをもらえるぐらいまで、ピンのそばに寄せる、みたいなことを著者や編集者は日々やっているのかな、という気もします。
そしてまた、そのようにして考えると、もともと言葉ではなかった概念を言葉で表現するという行為自体、なんだかゴルフのようだとも思えてきます。
本当に言いたいことをスパンと1発で表現できることなんて、あまりないのかなと。それってゴルフのホールインワンみたいなもので、むしろ万に一つぐらいの現象で、大抵は強く言いすぎたり、言い切れなかったりしていて、だから言葉でコミュニケーションを取るときには、相手が何を言ったのか(どこにボールが落ちたのか)ではなくて、相手が何を言いたかったのか(どこにカップが埋まっているのか)を想像することが有用なのかな、と。
以上、抽象的な話でした。