音感で推敲する
こちらは「言葉に関するアドベントカレンダー」の5日目の記事です。昨日の記事は以下でした。
推敲作業には時間がかかります。同じ意味のことを書いていても、通常、その表現には複数の候補が考えられるからです。
たとえばおいしい料理を食べて、「おいしいなあ」と書くか、それとも「うまいなあ」と書くか。言いたいことは同じですが、表現は異なります。
表現Aにしようか、表現Bにしようか、と考えたときに、ぼくが判断の基準に置くのは、「音感」です。
もちろん、文字は音を発しませんが、それを目で捉えて読んでいるぼくの頭の中には、いわゆる耳から捉える(空気を振動させる)「音」そのものではないにしても、それと同種の何かが響いています。
これは読点(「、」)の打ち方にも共通しています。テンをどこで打つか、打たないか、という判断にはある意味で正解がなく、あるのは「まあ、これなら不自然ではないよな」という大体の感覚で、その幅というか、範囲の中に収まればよいと思っています。
そのいわば及第点に達しているかどうか、ということを判断する際に活用しているのが上記の「音感」で、これは実際には、ピアノや弦楽器が奏でるような音程を持っていないので、もしかすると「リズム感」と言うべきかもしれないですが、しかし一方では、なんとなく抑揚が存在しているようでもあって、その意味ではやはり「音感」と言えるかもしれません。
頭の中で文章を何度も読み上げながら、すらすら、さらさら、と上から下へ、流しそうめんのように言葉が流れていく様子をぼくはいつも思い描いています。途中で、竹筒の継ぎ目のようなところでそうめんが引っかかったら、その部分を削って、磨いて、また文章を読み上げて、その言葉が上から下へ、流暢に流れているかどうかを確認します。
そのように、言い回しAと言い回しBを推敲しているときには、ぼくは自分にとってより自然で、より意図を正確に伝える「流れ」ができている方を選択します。
では、読み方は同じで、文字が違う場合はどうすれば良いでしょうか? たとえば、「分かる」と「わかる」のように、同じ意味&発音の言葉を漢字にするか、平仮名にするか、という場合。
このときは、音感に違いは生じないので、ヴィジュアルで判断します。これについては、次の記事に書きたいと思います。(予告してしまった・・)