安定と不安定

こちらは「言葉に関するアドベントカレンダー」の22日目の記事です。昨日の記事は以下でした。

次のような文章があったとき、

私はあなたはそんなことをする人だとは思わなかった。

少なからぬ人が最初の「私はあなたは」という部分に引っかかるのではないかと思います。

これはおそらく、初めに「私は」という言葉を見て「なるほど、この文の主語は〈私〉なんだな」と思ったすぐ後に「あなたは」を見て、「あれ、主語は〈あなた〉か? 〈私〉じゃなかったの? どっちなん?」というふうに、文全体の向かう方向が揺らぐというか、不透明になるからだと思います。

文の構造としては、インデントを付けて以下のように見てみると把握しやすくなると思いますが、

私は    あなたはそんなことをする人だとは思わなかった。

これが一文につながると、2つの主語が同じ「〜は」の形で続くことによって、その構造が見えづらくなってしまうのだと思います。

ひとまずの応急処置としては、後者を「〜が」として、上記の構造を意識しやすくする方法があると思います。

私はあなたがそんなことをする人だとは思わなかった。

より誤解の余地を減らす方法としては、上で分解した2つの文を混ぜずに使う方法があると思います。

あなたがそんなことをする人だとは私は思わなかった。

これであれば、インデントや入れ子は発生せず、一文につながってもわざわざ構造を意識する必要はなくなります。

また、この修正版の良いところは、それぞれの主語(「あなたが」「私は」)が、その述語(「そんなことをする人だ」「思わなかった」)の直前にくっついていることです。

逆に、最初の例では「私は」とその述語である「思わなかった」が離ればなれになってしまって、その間にいる読者が不安定な思いをするという状況が生じているように思えます。

わかりやすい文章では、この主語と述語の間が適切な距離になっていると思います。

ぼくはまた、この「主語と述語」の関係を「ジャンプと着地」の関係としてイメージしています。主語が「私は」と発せられたら、それは誰かがジャンプした瞬間で、述語が「思わなかった。」と完結したら、ジャンプした人は着地する、というように。

主語と述語の間に別の表現が挟まれば挟まるほど、ジャンプした人の滞空時間は長くなり、最後に綺麗に着地すると、個人的にはそれはそれで「お見事!」と思ってしまうのですが、ただ普通の読者はあまり不安定な思いをしたくないでしょうから、とくにお勧めするわけではありません。

また、滞空時間を長くすると、その間に着地点を見失うというか、最初の主語を受ける述語が消えてしまうことも少なくないので、やはり基本的にはなるべく主語と述語の間は短く、近づける方が良いのだろうと思います。

これに似た現象で、「〜なので」のような順接や、所有を表す「〜の」を一文の中に何度も使ってしまうという状況があります。

信号が青になったので、だから前に進んだので、私は悪くない。

私の子供の筆箱の中のシャーペンの消しゴムが取れた。

どちらにも共通するのは、なかなか結論が見えてこない、ジャンプの例で言うなら「なかなか着地しない」という状況だと思います。

通常、読者はこういう文章に遭遇すると、「早く結論を示してほしい」「早く落ち着きたい」と思うものだと思いますが、ぼくは以前からこれって何かに似ているなと感じていて、最近になって、それがかつて音楽理論を習っていた頃に教わった「トニック」「ドミナント」などの機能和声だったことに気づきました。

トニックというのは、落ち着いた、安定した状態を示す機能で、よく例に挙げられるものとしては、ピアノで「起立、礼、着席」の伴奏を鳴らすときの「起立」と「着席」です。

一方のドミナントはそれで言う「礼」で、「起立(ミソド)」が鳴った後にこれが鳴ると(レソシ)、人は不安定な印象を抱きます。

いつまでも述語が出てこない文というのは、なかなかトニックに戻らない音楽のようなもので、人を不安にさせるところがあります。

一方で、ある程度不安定が続いた後にトニックに戻ると「うわ」と思うような快感が生じるもので、世の中でヒットするポップ・ミュージックでは、その辺のバランスがこれでもかというぐらいに計算されていると思います。

ぼくが文章を書いたり編集したりしているときにイメージしているのは、前述の「ジャンプと着地」の距離感であり、この「トニックとドミナント」の配置のバランスでもあると思います。あまりすぐに安定してしまうのもつまらないけど、いつまでも不安定なままだと着地点を見失ってしまうので、その間のちょうど良い飛行経路を探しながら、上に下にと文章を組み上げていると思います。

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