することができる
こちらは「言葉に関するアドベントカレンダー」の19日目の記事です。昨日の記事は以下でした。
「〜することができる」という表現は冗長であり、「〜できる」と書くべきである、という意見があります。
ぼくが知る中で一番良くまとまっているように感じたのは、以下の記事でしょうか。
この記事の論旨は明快で、「本来〈〜できる〉で済むのに、カッコつけて〈〜することができる〉なんて書くのは百害あって一利なしだからやめよう」みたいなことだと思います。
コメント欄では、「全部が全部排除できるものではない」という例として「育つ」とか「抜かれる」という語や例文が紹介されていて、その辺も含めて有益な記事だと思いますが、ただ個人的には、「まあそこまで徹底的に排除する必要もないんじゃないか」という印象もあります。
以前の記事で、「〜になります」の多くは「〜です」にした方がいい、みたいなことを書きましたが、
言いたいことはそれに近いところもあって、その意味でも共感できるところは多いのですが、それでもぼく自身のことを言うと、これも以前の記事で書いたように、単に「〜できる」と書くより「〜することができる」とした方が(カッコよくても悪くても)音感として耳に入りやすい場合というのが少なくないので、いわば語呂を合わせるような感覚で、「できる」の前に「〜することが」を付けることがあります。
言い換えると、上記のQiita記事のコメントにあるような「〈することが〉を付けざるをえない理由」がもしなかったとしても、文章としてその方がしっくり来るから「〜することが」を付けるときがある、ということです。
仮に意味がまったく変わらなかったとしても、「〜することができる」の全部が全部、「〜できる」になった方が良くなるのかと言ったら、そうではないよな、と。ちょっと回りくどいぐらいの方が、文章全体としてはちょうど良くなる場合もある、という気がしています。
思ったより早めに仕事が終わって、そのまま直で家に帰るのもつまらないから、ちょっと寄り道して帰ろうかな、みたいな。そういう「〜することが」のくっつけ方があるというか。
無くてもいいのになぜかくっつきやすい言葉として、「〜という」とか「〜のような」という言い回しがあって、こういうのも、その多くは刈り取るほど文章が引き締まって良いと思いますが、ただこれもカットすること自体が目的みたいになってしまうと、文章から余裕というか隙みたいなものが無くなってしまって、かえって読者の居心地が悪くなってしまうかも、と思うことがあります。
実際には、「冗長だからやめましょう」という指摘のとおりであることが大半で、ぼく自身も推敲の段階では「これ冗長だな」とか「もっと短くできるな」とか「また同じこと言ってる・・」というふうに、「いかに文意を変えずにどんどん短くしていけるかゲーム」みたいな感じで文章を短くしていったりもするのですが、そういったダイエット的な作業をすればするほど、わずかに残った冗長性が街の片隅の喫煙スペースのような、無意識のほころびのようなリラックス感を醸したりもするので、そういった趣旨で「これ、なくてもいいけどトータル的には残した方が自分の感覚にフィットするから残そう」みたいにすることがあります。
誰かの役にそのまま立つかはわかりませんが、なるほどそういうふうに推敲している人もいるのか、というサンプルになればと思って書いてみました。