ウェブマガジン『greenz.jp』の編集長だった兼松佳宏はいま、京都の地で少し変わった人生の新しい章を歩き始めている。「フリーランスの勉強家」の肩書きに込めた想いと新しい教育のかたち。“21世紀の空海”が、いま、未来に伝えたいメッセージ。

京都駅・八条口からすぐの場所にあるワコールの新社屋。その1階、一見すると小さな図書館のようにも見えるスペースの一画では、「『BEの肩書き』探究クラス」という一風変わった授業が行われていた。

講師を務めるのは、ウェブマガジン『greenz.jp』元編集長で現在は京都精華大学特任講師、そして勉強家──これが彼の「BEの肩書き」だ──の兼松佳宏。授業名が示す通り、職業も年齢もバラバラな7人の生徒が約2カ月をかけて、自身の「BEの肩書き=在り方を表す肩書き」を見つけるためのクラスである。その日はゲストにSIONEブランドデザイナーで陶板画作家の河原尚子を招き、兼松と受講生たちは、彼女のBEの肩書きについて話を訊くことでその在り方と生き方について考えていた。

「へー! 10,000代目! その心は?」

河原が自身のBEの肩書きが「10,000代目」であると明かすと、数年前から変わらないツーブロックの髪型に丸眼鏡、ジャケットにスウェットパンツという格好の現在38歳の兼松は、子供のように目を輝かせながら言う。約330年続く京都の窯元「真葛焼」の家系に生まれながら、兄がいたために家業を継がなかった河原にとって、「継ぐ」とは物事ついたときからの人生のテーマだった。自分が家業を継がないからこそ、逆に「継ぐ」とは何かを考えて生きてきたのだと。

「家の中が、『継ぐ』ということを中心に成り立っていたんです。そのことでわたしは複雑な思いをしたこともあるし、『自分の存在って何なんだろう?』という問いを突きつけられたこともありました」と河原は言う。「でも、生物学的な意味ではないDNAを──、師匠はもちろん、学生時代に出会った先生たちの言葉たちを継いでいまのわたしができあがっているので、人は、血だけじゃないものを継いでいくのだろうと思っています。すべての人が、何かを継いでいる。家業じゃなくても、人は、この時代を継いでいるということを大事にしたいんです」

東日本大震災以降に「ソーシャルデザイン」というコンセプトを日本に定着させたウェブマガジンの編集長として兼松が世間に知られていたことを考えると(兼松が編集長を務めていた2010〜2015年の間に、グリーンズはフリーペーパー・メトロミニッツの「POWER OF SOCIAL DESIGN」特集の共同編集を行ったほか、書籍『ソーシャルデザイン』『日本をソーシャルデザインする』を出版している)、彼が2016年春から京都精華大学人文学部で教鞭を執ることにしたのは、珍しいキャリアチェンジに映るかもしれない。

兼松佳宏|YOSHIHIRO KANEMATSU
勉強家/京都精華大学人文学部 特任講師。1979年・秋田生まれ。一児の父。フリーランスのウェブデザイナーを経て、ソーシャルデザインのためのヒントを発信するウェブマガジン『greenz.jp』の立ち上げにかかわり、2010〜2015年まで編集長を務める。2016年、「フリーランスの勉強家」として独立し、著述家、京都精華大学人文学部特任講師、ひとりで/みんなで勉強する【co-study】のための空間づくりの手法「スタディホール」研究者として活動中。編著に『ソーシャルデザイン』『日本をソーシャルデザインする』〈朝日出版社〉がある。2018年秋に初の単著『空海とソーシャルデザイン』刊行予定。http://studyhall.jp

しかし彼にとっては、それはごく自然な選択であった。「僕のBEは『勉強家』であり、その上でDOとしてかつては『greenz.jp編集長』をしていて、今は『大学教員』をしている」と、兼松は2017年7月に自身のブログに綴っている。「外向きには大きな変化かもしれないけれど、内向きには何も変わっていない」

「DOとしての肩書き、BEとしての肩書き」と題されたこの2,000字ほどの短い記事は、その後『greenz.jp』に転載されると、各方面から反響を得ることになった。

「BEとしての自分を見つめることで、『何になるか』ではなくて、『どう生きるか』という問いが見えてくる。これ、中高生くらいから考えると、すごくいい教育にもなると思う」とThink the Earthの上田壮一が語れば、ツクルバの共同創業者でCCOの中村真広はいま、約60人の社員の名刺に、一人ひとりのBEの肩書きを載せることを考えているという(ちなみに中村は自身のBEの肩書きは「活動家」だと語る)。2017年12月までの間に、兼松はBEの肩書きを考えるための大小さまざまなワークショップを20回以上開催。いまではその手法はオープンソース化され、長野や山梨、鹿児島といった全国各地で、自主的に同様のワークショップが行われている。

「働き方を変えるためには、『Technology・Team・Tag』という3つの『T』を変えることが大事だと思っています」。毎年11月に行われる働き方の祭典「Tokyo Work Design Week」(TWDW)のオーガナイザーで、著書『これからの僕らの働き方』で兼松にインタヴューを行った横石崇(BEの肩書きは「場の編集者」だ)は言う。「二枚目の名刺や副業の話が常にされているように、肩書きを考えることは常に『働く』を考えるきっかけになってきました」

2017年のTWDWで、兼松や“圏外コピーライター”の銭谷侑をゲストに招き、「在り方=Being」と「働き方=Working」の関係を考えるためのプログラムを開催した理由のひとつは、人工知能やブロックチェーンといったテクノロジーが既存の仕事や働き方を変えつつあるいま、自身の「Being」を問うことがますます求められているからだと横石は続ける。「機械にできる仕事がリプレイスされていくように、テクノロジーによってこれまで規格化されてきた『Doing』はますます解体されていく。そのときに大事になるタグは、その人の『Being』から発動されるタグのほうなんです」

兼松は「DOの仕事」と「BEの在り方」を、海の上に見えている部分より海底部分のほうが高いハワイの火山・マウナケアにたとえて説明をする。人から見える「DOの肩書き」の下に、人には見えないその人の在り方を示す「BEの肩書き」があり、さらにその下に存在そのものを表す自分の名前が来る。『greenz.jp』編集長、大学教員を経て、今後は私塾を始めたい、と兼松は語る。

一方の兼松は、「正直、こんなにみんなが興味をもってくれるとは思わなかった」と照れくさそうに笑う。「DOとBE」の考え方は自己啓発系の書籍では決して珍しいものではなく、自分がやったのはそれに「肩書き」という概念を加えただけなのだと。

「スティーブ・ジョブズのスタンフォード大学のスピーチが好きな人って多いじゃない? ぼく自身も感動したし」。取材のために京都を訪ねた11月のよく晴れた朝、紅葉に満ちた天龍寺の庭を眺めながら兼松は言う。

「connecting dotsの、『dots』の部分が『DO』だとすれば、それがつながったときに見えてくるものが『BE』なんだよね。あの話をアジア風に言うと、囲碁の『布石を置く』という感じに近いのかもしれない。10年前に置いた石の隣に、あるときもう1回石が置かれる。そうすると、『あの過去には意味があったんだ!』ということに気がつく。ジョブズが言っているのは、要は人生とは壮大なる伏線回収だということ。自分の過去を肯定できる、あの過去のおかげでいまがあると思える──そうした喜びを、ぼく自身はたくさん味わってきたから、もっとみんなに知ってほしいし、伝えていきたい」

「BEの肩書き」とはもともと、自身のアイデンティティに悩み続けた兼松が、自らを肯定するために編み出したコンセプトだった。20代を通して数々の肩書きを名乗ってきた彼は、31歳にして「勉強家」を名乗ることを決め、ようやく自分らしい生き方・働き方をスタートさせることができたという。しかしいま、彼は自らの哲学とメッセージが、他人の心にも響くことに気づいたのだ。

兼松の人生は、常に「勉強」とともにあった。1979年・秋田生まれ、自由な姉と真面目な兄をもつ兼松は、その2つの性格を併せもちながら育った。両親から「勉強しなさい」と言われた記憶はない。それでも彼は、ただただ学ぶことが楽しかったし、家に帰ると母親は毎日、「今日はどんな勉強をしたの?」と彼の話を聞いてくれた。小学校のテストはほとんどいつも100点だった。

好奇心旺盛な兼松にとって、秋田に留まり続けるのは人生の選択肢になかった。「秋田を出るには勉強しかなかった」と彼は言う。大学進学と同時に上京し、ファッションが好き、というシンプルな理由でフランスに関係のある仏文科を選んだ。

現在は人文学部で教える兼松だが、学生時代にのめり込んだのは言葉よりもデザインだった。当時はちょっとしたhtmlやcssが書ければ重宝がられた時代だ。彼は独学でウェブデザインを学び、制作プロダクションに就職。会社で働きながら、NPOのウェブサイト制作などをプロボノで行う生活を続けたのち、26歳で独立。はじめはフリーランスのウェブデザイナーとして『greenz.jp』の立ち上げにかかわることになる。

それと同時に兼松は、独学し続けても「何のプロでもない自分」を発見することになる。独学精神とあらゆるものに好奇心を向けるヴァイタリティでなんとか人に面白がられる仕事をしてきたが、同時に専門性がないことへの焦りと不安も募っていった。グリーンズに正式にジョインする前には大学院に行くことも考えたという。

「あのときは挫折の時期だった」と兼松は振り返る。「『クリエイティヴディレクター』や『デザインジャーナリスト』という背伸びをした肩書きを名乗って専門家になろうと頑張ったけれど、なんだか手応えがなくて。本当に自分は、すべてが中途半端だと思った」

そして彼は、31歳のときに「勉強家」を名乗り始める。きっかけは、いまでは誰に言われたかも思い出せない誰かの、何気ない一言だった──「兼松くんって、本当に勉強家だよね」。「勉強家」という言葉に「不思議な魅力と可能性を感じた」と彼は先のブログに綴っている。「何より自分を表現するのに、とてもしっくりきた」と。

「専門家になれないのであれば、アマチュアのプロになろう。素人のプロになろう。そう思って『勉強家』を名乗り始めたら、すごくすっきりした。その先に、グリーンズの編集長をやるとか、大学で先生をやるといった話がつながり、いろんなことが“一致”し始めた」。兼松は言う。「勉強家なら生きていける気がした」

京都精華大学の兼松の研究室の本棚には、彼が影響を受けた空海やジョルジュ・ペレックに関連する本のほか、文学、教育、デザインといった多様な領域の書籍、米国のソーシャルマガジン『GOOD』のバックナンバーなどが並ぶ。

東京・青山に「スパイラルホール」という文化の発信地をもつワコールが、京都では「学びの空間」をもっていることはあまり知られていない。

1946年、京都の地にワコールを創業した塚本幸一のヴィジョンは「世の女性に美しくなってもらうことで社会に貢献すること」だった。約70年の間、下着メーカーとして女性の美を支えてきた同社は、2016年10月、「学び」を通して女性の美しさを応援するための新事業として「ワコールスタディホール京都」をオープンする。そしてこの名前は、兼松がフリーランスの勉強家として2015年の暮れから行っている「情熱を持って、ひとりで/みんなで勉強する」ための方法を研究し、あらゆる勉強空間/時間をリノヴェイトするためのプロジェクト「everyone’s STUDYHALL」にインスピレーションを受けている。

オープンから約半年遡る2016年3月、現在はワコールスタディホール京都の館長を務める鳥屋尾優子(BEの肩書きは「空手家」だ)は、上司を介して知り合った「ソーシャルデザインの専門家」である兼松に講師の依頼をするための打ち合わせを行っていた。新しくつくる場のイメージは膨らんでいたものの、それを表すのにふさわしいネーミングが思い当たらずに悩んでいるところだった。

「『へー!』と何にでも興味津々で、こちらの発する言葉を丁寧に拾う、とても繊細な方だと思ったことを覚えています」と話す鳥屋尾は、兼松からeveryone’s STUDYHALLの活動について聞き、勉強時間と勉強空間の両方を表す「スタディホール」という言葉に「しっくりきた」という。

「スタディホールという場所では、人は、自分で学んでいくんですよね。決して教える/教えられるというだけの関係ではなく、ワコールのわたしたち自身もここで学んでいく──。そんな学びの館をつくりたいと思っていたときに、『スタディホール』という言葉と出会い、まさにわたしたちのつくりたい場所を表現していると思ったんです」

そうして、新たな学びの空間は「ワコールスタディホール京都」と命名されることになった。館のロゴやピクトグラムといったグラフィックデザインは、兼松の旧友であるNOSIGNER 太刀川瑛弼が手がけている。

左:兼松は自身のゼミで、少人数の学生たちとともに彼らの「BEの肩書き」を考える授業を行っている。右:京都精華大学「流渓館」の2階にある兼松の研究室。PHOTOGRAPH COURTESY OF EVERYONE’S SYUDYHALL

ワコールスタディホール京都で一講師として授業を行っているのは、兼松の勉強家活動のひとつにすぎない。あらゆる独学者の相談役/進行役として伴走をする「スタディ・コーチング」のサーヴィスや、家庭に余裕があるかないかにかかわらず、学ぶ熱意のあるすべての子供が無料で学べる私塾をつくるといったプロジェクトを始めることを、彼はいま計画している。everyone’s STUDYHALLという名前が表すように、勉強をしたいすべての人に開かれた仕組みをつくりたい、そして「やらされるもの・つまらないもの」と思われがちな勉強のイメージを変えたい、と兼松は語る。

京都精華大学というアカデミックな世界に身を置いているいま、現在の日本の教育に対する彼の問題意識はますます大きくなっている。「ぼくが大学生だったころとは違って、いまは大学に行かないと就職ができない、という圧力がある。利息が高い奨学金を借りてでも、あるいはバイト漬けの生活をしてでも、『学歴』を買うために学生たちはかなりの無理をして大学に来るようになっている」

そうした状況が大学と学生のミスマッチを招いてしまう、と兼松は続ける。学歴が目的になれば、興味のない学部でも、興味のない授業でも、とにかく単位を獲得できればいい。そして大学側も、時代に合わせてカリキュラムを見直すことはできても、実際は学生一人ひとりに接続できていない。「本当は誰も悪くないのに、ミスマッチによって大学が悪い、学生が悪い、と言われてしまう状況になっている。その構造がおかしいよね」

兼松によれば、現状の学校に足りないのは「コーチング」だ。専門知識をもった先生や教授だけでは行えない、学生一人ひとりのやりたいことを引き出すようなコーチングサーヴィスが、大学におけるミスマッチを防ぐためのヒントになるかもしれない。娘が生まれたことをきっかけに生まれた「家の中を最高の学びの場所にしたい」という想いから始まったeveryone’s STUDYHALLの私塾プロジェクトが、高校を卒業しても無理に大学に行かなくてもいい環境づくりのヒントになるかもしれない。

「この先の10年間で、ぼくもSTUDYHALLの活動として新しい仕組みを考えて、学びのオルタナティヴをたくさん発明していきたい」と兼松は言う。「そして10年後、大学が本当に様変らなければいけなくなったときに『この手法で行きましょう』と提案できるようになったらいいよね」

「BEの肩書き」という、TWDWオーガナイザー 横石の言葉を借りれば「偉大な発明」に対する反響が増える一方、当の本人はすでに次を見据えている。

いま、彼の頭のなかにあるのは、2018年秋に出版予定の『空海とソーシャルデザイン』の執筆だ。自他ともに認める「空海好き」の兼松によるウェブ春秋社での連載をベースにした初の単著で、グリーンズ時代に蓄積した思想とフリーランスの勉強家としての活動をまとめた1冊になるという。

おもしろいことに、空海について調べていくと、兼松の人生とのリンクが見えてくることに気がつく。空海は31歳で出家して僧となり、兼松は31歳で「勉強家」を名乗り始めた。空海は33歳からの数年間を大宰府・観世音寺で過ごし、兼松は33歳からの数年間を妻の両親が住んでいた鹿児島で過ごした。空海も兼松も、ともに36歳のときに京都に居を移している。

「BEの肩書き」は、ある意味では仏教が何よりも大事にしている「諸行無常=執着しない」という考えに基づいている、と兼松は言う。BEの在り方さえ守ることができれば、DOとして行っている仕事を手放すことは簡単になるからだ。そしてeveryone’s STUDYHALLは、空海が828年に開設した日本初の庶民向け私立学校「綜芸種智院」の存在がアイデアのベースにあるという(ちなみにワコールスタディホール京都は、奇しくも綜芸種智院があった場所から100mも離れていないところに建てられている)。

「綜芸種智院の教育理念の特徴を3つ挙げるなら」、と兼松はウェブマガジン『DOT PLACE』の記事で空海の学校について説明している。「(1)身分の上下に関係なく、学問に志す人たちに入学を許可すること、(2)人間教育を目的とする、総合教育を実施すること、(3)教師にも学生にも完全給費すること、ということになる。特に授業料を無料とし、さらに衣食までも完全給費するという前代未聞の試みは、『子どもたちへの教育こそ、未来への贈り物である』という空海の強い決意が秘められている」

さらに彼は、「もし空海が現代に生きていたら、グリーンズをやっていたんじゃないかな」とも空想を膨らませる。

「綜芸種智院の『種』の字が表すように、空海はぼくら一人ひとりがすでに種をもっていると信じ、その種を咲かせることを自らの使命としていたんだと思う。誰もがもっている可能性を活かしきるための方法を人々に伝える、ということを彼はやり続けていたんだ。そして『greenz.jp』も、自身のミッションに突き動かされてマイプロジェクトを行っている人々に『あなたはすごいことをやっているんですよ』と言い続けてきたメディアなんだよね。だからいまの時代に空海が生きていたら、インタヴューを通じて、挑戦する人々を勇気づけていたんじゃないかな」

仏教の多くが掲げる「無欲」に対して空海が唱えた「大欲」の現代語訳は何か? 「ほしい未来は、つくろう。」である。

2021年の春に京都精華大学の任期が終わったあとに何をしていくのか、兼松はまだ決めていない。

「グリーンズにフルタイムで戻るイメージはないけれど、かといって専任で大学の先生になりたいわけでもなさそうで」。観光客で賑わい始めた昼時の嵐山の、桂川が目の前に広がるカフェで兼松はそう教えてくれた。「となると、就職するか起業するか。でも、ぼくが就職するイメージって沸かないでしょ(笑)。いまいちばん考えているのは、起業すること。STUDYHALLをテーマにした私塾や学びの仕組みつくるのが、たぶん、ぼくにとっての次のステージになる」

また、「勉強」以外に兼松が昔から変わらず取り組んできた「言葉遊び」をテーマにした表現活動を行っていくことも視野に入れているという。フランス人作家ジョルジュ・ペレック(と、これまでの人生で彼と縁のあった「言葉のセンスのよい女性たち」)の影響で言葉遊びを愛するようになった兼松は、妻とともに言葉遊びワークショップユニット「cotone cotône」としても活動中だ。今後のアウトプットは絵本かもしれないし、言葉遊びを体験できるワークショップかもしれない。「言葉遊びといえばあの人たちだよねって言われるような存在になりたい」と兼松は言う。

遊び、とはいえ、彼にとって言葉遊びを考えることは、子供や教育の未来を考えることと同義である。「なぜ人と人は対話をすることが難しいのだろう?ということを考えたときに、自分のことを自分で正しく表現できていないからだとすれば、やっぱりそこではヴォキャブラリーをもっていることが大事になる」と兼松は言う。

「自らの心が感じたことを『すごい』で終わらせない。『ヤバい』で終わらせない。もっと繊細な感情を表すための言葉を手繰り寄せる練習を日頃からしておくと、『君はどう思うの?』と聞かれたときに、どこかから借りてきた言葉じゃない、自分自身の表現を伝えられるようになると思っている。『言葉そのものの力』を、ぼくらは底上げしていかないといけないんだ」

これからのことについて話を訊いている間、兼松が以前、「50歳になったら作家になりたい」と話していたことをふと思い出した。数年前、彼がまだ『greenz.jp』の編集長を務めていたころのことだ。2018年には単著を出し、38歳にしてその目標が叶いつつあるいま、彼はその先のことをどう考えているのだろう? 彼に訊くと、娘が20歳を迎える50代まではeveryone’s STUDYHALLの活動に集中したいと答え、いたって真面目な調子でこう続けるのだった。「60歳になったら俳優をやってみたいし、70歳になったら哲学者を名乗る。80歳になったら、お坊さんをやってもいいかな」

ウェブデザイナーからウェブマガジンの編集長になり、大学講師になったこれまでの彼の人生を振り返れば、これもまったくの当てずっぽうというわけでもないのだろう。だからこれから、彼がどんな「DOの肩書き」を担うことになっても驚いてはいけない。兼松はきっと、これからも新しいことを学び続け、そこで得たアイデアやメッセージを、人々に言葉で伝えていくはずだ。結局のところ兼松佳宏は、いくつになっても「勉強家」なのだから。