産婆術は「したもんがち」

批判が怖い

最近個人レベルでコメントや批評がされるようになり何かとうれしいです。自分が書いた文章に対して何かしらの反響がある、というのはそれだけでうれしいものです。

しかし僕は基本的に「豆腐メンタル」なので、少し語調が強いと胃が痛くなってしまいます。ちなみにこの「胃が痛い」というのは比喩でもなんでもなく本当のことです。たぶん父親に似たのでしょう。

ブックマークが50を超えてから覚悟しなければいけないこと-「ポジ熊の人生記」でそのテーマの通り「50を越えたら批判くるよ~」という内容の記事があったので引用させていただきます。

ブックマークが50を超えるような拡散エントリーについては、高確率で誹謗中傷や暴言の類が書き込まれる。引用:ポジ熊の人生記

なるほど。頑張ろう僕も。

ソクラテス式問答法でもビビるときはビビる

「そんなこと言ったって、正当性のある批評コメントなら大丈夫でしょ!メンタル的に!」と思っていた時期がなかったわけではないのですが、「正当性があるコメント」でもメンタルには響きます。

自分の論拠が危うくなるようなときに「それでもなお、俺が正しい」と思えるような内容を書くことはもちろんです。情報が錯綜する情報社会の中において、何かしらの情報発信をするという「勝手な役割の担い方」にも、それ相応の責任は必ずあります。

そこで、批判や中傷の類ではなく、「しっかりと返さなくてはいけない気がする」ようなコメントが付いた場合は気持ち的にメンタル的にどうすればいいのかが大事ですよね。

特に、質問される側に必ず回るのが「執筆者」です。責任を引用元に転嫁することもできますが、そうは問屋が卸さない。

ソクラテスのような問答法チックな質問は「したもんがち」なんです。

では、どうするか?

まだバズったこともないのにこんなことを考えても仕方のないことのように思えますが、そうではないと思いますので、ちょっと考えてみたのですが、これはもう「逃げないで戦う」しかない。

別に、「個別的にコメントに返信しろ!」というわけではないのですが、質問に対する受け答えのロジックを自分に納得する程度に構築する。この反復が大事なのだと思いました。これは実践していきます。もちろん、それで何かまた新しい気づきがあれば、臆せずに語っていきたいですね。

これ、生活一般にもあてはまるんじゃないか?

思いました。これ、「何にでも応用でき」ますね。

何か新しいことを始めよう、しようと思って、実践していると必ず「質問攻め」にあう。当事者ならすぐ理解できると思いますが、これが結構「まじめな人ほど気にする」のは確かでしょう。

まじめな人が損をすることは決してあってはならないことだし、質問をする側も、質問しただけで文句を言われる筋合いはないでしょう。しかし、人間関係たるもの、ふと気が付けば人格攻撃に走ってしまうことがあまりにも多い。

日常的に、質問される側のときはしっかりと批評をかみしめること。質問する側のときは、揚げ足をとらないこと。これとても大事だと思います。

ともすれば忘れがちな原理原則ですね。「言われなくても分かっているよ!」と言われそうですが、結構忘れている方も多いのではないでしょうか?

批判大国ニッポン、そこで「うまく生きてく方法を考える」のではなく土壌を変えたいな。もっと建設的な言論空間を整備するためにはどうすればいいのだろう。そこについてはまだまだ考えていきたい。

まとめ

ソクラテスの問答法「産婆術」については、ネットメディアの観点から深く考察していきたいです。やってみます。