考えましょう、勝つまでは。

「意見」に関するお話です。

「忍耐を超える忍耐」がなければ、自分の意見は持てない。

私はいつも不思議に思うことがあります。それは、「なぜこの人は確証もないのにこんなことを断定形で言えるのだ?」ということです。もちろん、確証のあることだけを発言するべきだとは私は思いません。

しかし、恐ろしいことに本を全然読んでいなかったり、そのトピックに関する背景や事前に踏まえるべき情報を全く踏まえていなかったりする人々に、それは顕著に表れます。

ありがたいことに、そういった方々と巡り合うこともなく実に柔和でなおかつ含蓄のある発言や、慎重かつ大胆な発言を言える人々との会話で私はぐうの音もでないほどの経験をしてきました。

しかし、「自分の近くにはいてほしくないなぁ」という方にもたくさん会ってきました。(とはいうものの、最近は素晴らしい方々にしかお会いしていないので、大変勉強になっています)

そういう人が何割ほど社会にいるのかはわかりませんが、わかることは、私たちは「考えに考え抜いた意見」を持ちつつ、「考えていないのに偉そうに何かを語る人の意見」と自分の意見を戦わせなければならないということです。

これは多大な労力がかかる。精神的なコストが膨大です。私はこれを「考えましょう、勝つまでは。」というスローガンにして、自分に言い聞かせて生きたいと思っています。


宗教の話

あまり触りたくはないトピックではありますが、宗教に関するお話です。というのも、去年の夏にちょっと宗教に勧誘されたことがありました。

私は特定の思想を持っている人に関しても、変な偏見を持たずに接します。ただ、そういった思想を持つ人はなぜか、「押し売り」をしてきますよね。こちらを救いたいという善意でしていることかもしれませんが、正直に言うと”迷惑”ですので、やめていただきたいと考えています。

それはそうとして、その宗教に勧誘されたときに、相手側の「いかにこの教えを信じるとメリットがあるのか?」をプレゼンされるのは当然なのですが、そのプレゼンがあまりにもお粗末でした。あれで「入ります!」という人はたぶん一人もいないでしょう。

私がもし、何らかの宗教に入信するとすれば、すべての宗教を知ってからにします。すべてについて専門的な知識を有する、というわけにはいきませんが、様々な思想を比較衡量し、最も妥当なのはどこかをしっかり明確にしてから特定の宗教に入信します。

どうしてここで宗教の話をするのかというと、「トピックに関する背景や事前に踏まえるべき情報を踏まえておらずに何かを妄信する」ということの代表例が、このときの「入る気に全然なれないプレゼン」だったからです。何かを人に意見する、時間をとって自分のほうを向いてもらう時の責任感が、全く感じられない。その失礼さは、以前の「批判のための批判」の記事と同じくらいに、我慢ならないものでした。


「多様性」が叫ばれる今こそ、「”非”多様」な判断基準が求められる

世の中は、様々なかたちで「多様性」が叫ばれる時代に突入しました。人々の価値観や国家の在り方、世界情勢や社会問題の観点など、ありとあらゆる面で、「多様な価値観」を内包できる人物や思考回路が求められています。

それは本当に素晴らしいことで、私も「多様性を内包できる」社会や意見を志向していくべきだと考えています。しかし、もっとメタ的な論理を呼び起こすならば、「多様性」を内包する場合に、多様性という言葉の意味を「”非”多様」にしなくてはならないということです。

それと同様に、”意見”の在り方ももっと「”非”多様」にならなければならない。この場合、「多様な意見は必要ない!」ということではなくて、「意見として認めるべきもの」を判断する基準に多様性は必要ないということです。

つたない意見や相手にしても仕方がない意見に逐一立ち会っていたら、いつまでたっても埒があかないのは自明です。だからこそ、「意見として認めるべきもの」の判断基準を、明確にしておかなければならない。


「意見として認めるべきもの」の基準とは何か?

私たちは、意見をいうとき「ロジックが通っていて、正当性があるもの」を文章化して、口や文章で表現します。

その知的作業には、忍耐が必要です。感情的に暴発させてしまったものは「暴言」にはなりますが、「意見」にはならない。(しかし、その暴言が社会認知度を上げたせいで、さもオピニオンリーダーになっている場合も散見されます。)ですから、考え抜いた意見を表現できるまで、つまり、「社会的に勝つ」までは、「忍耐を超える忍耐」をし続けなければならない。

その「意見」を意見たらしめる「基準」とはなんでしょうか?


基準1.正当性がある(ロジックが通っている)

これは最低限の基準です。まず論理性がなければ意見とは呼ぶことができません。また、ここでいうロジックは、さきほどの「踏まえるべき情報」「トピックに関する背景」も含まれています。

基準2.ポジショントークをできる限り無くしている

自分の立場でしか通用しない意見や、その立場の人しか利益を得られない形で出されたものは意見とはいえません。しかし、これには例外がある。「そうであれと頼まれたとき」です。「特定の立場」たとえば顧客目線とか、経営者目線など、そういったビジネス的観点からあえて述べられる意見には、その場限定での正当性があります。

基準3.思い込みをできる限り無くしている

これも重要です。思い込みは、「中途半端な情報収集しかしていない場合」に散見されるものです。途中までは的確に証明されているデータや情報に基づいて発言されているものなのに、ある一線を超えると途端に思い込みのフェーズに入る場合があります。ただし、これにも例外があって、「仮説」「予測」という場合は別です。これは確かに思い込みの一種ですが、学問の発展や、新たなアイディアの創出のために不可欠な要素です。

以上、「意見」として認めることができる基準を3つ挙げました。これを考えると、やはり先ほどの宗教勧誘の話は綺麗に全て当てはまりません。


意見を言うためには、「忍耐」が必要である

「忍耐を超える忍耐」をしなければ、社会的に勝つ-意見を意見として認めてもらえること-はできません。「考えれば考えるだけ無駄」というものごとは世の中にたくさんありますが、それは、意見として拾われない程度の言論しかできない場合にも当てはまります。

さらに、上記で挙げたような「基準」を知ってしまうと、さらに意見をいうのが難しくなってきます。私も、意見をいうのがもともと得意ではないのに、まるで自分を縛り付けているかのようです。

しかし、その「縛りつけ」が、多様性を認めるべき社会においても「自動ブレーキ」になってくれますし、多様性を寛容に認めすぎて逆に「不寛容」になってしまう事態も避けることができます。なぜなら、「意見が”非”多様な基準をもとに出される」世の中においては、意見をいう側も受け止める側にも、倫理が出来上がるからです。

加えて、そのような緊張感をもって意見をいう土壌が育成されると、意見をいい、それに批判が来ても、批判に対してうれしくなってきます。「ありがとうございます」と批判に感謝できる日は、意見の基準を決めてからやってくると信じています。それまで、「考えましょう、勝つまでは。」

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