あのとき。

Kiyoto Asonuma
exploring the power of place
4 min readDec 9, 2017

忘れられない光景がある。

いまから約5年前、2013年の春。ぼくは宮城県女川町に住んでいた。カキやサンマなどを名産とする、全国でも有数の漁港を抱えていた海沿いのこの小さなまちは、その前年の3月11日、津波に襲われた。広範囲に及ぶ「被災地」の中でもその被害の甚大さは際立っており、まちの家屋倒壊率は8割を超えた。

スーパーや家屋、飲食店にとどまらず、ありとあらゆるものがまちの風景から消えた。そのひとつが電車だった。隣町から海沿いを走る石巻線は、女川町の中に浦宿駅、終点女川駅のふたつの駅を構えていた。が、津波により女川駅は跡形もなく流され、浦宿駅は残ってはいたものの、そこまでの線路が被害を受けており、電車は不通になった。石巻に行くための交通の便は自家用車かバスのみ。女川のまちのなかを電車が走ることはなくなった。

当時のぼくは、教育系NPOと行政が一体になってつくる、ある教育施設のスタッフとして働いていた。仮設住宅に住む子どもが多い中で、「子どもたちの居場所」を目指した、まちの半数以上の小中学生が通う学びの場だった。子どもたちとの対話はもちろん、学習支援のために塾のような授業も行っており、その準備なども含めて、毎日は結構ハードだった記憶がある。

町内には住めるような家もほとんどなかったが、職場となる旧小学校校舎(震災後、グラウンドに仮設住宅ができたため、廃校となった)から自転車で5分ほどの距離にあった、高台に立つ一軒家を団体で借りていた。まちの多くの人が仮設住宅に住む中で、なんだか申し訳ない気持ちもあったが、あの当時、ぼくらのように外部から「支援」のために来た人間は空いている仮設住宅を借りることはできなかったし、加えて、この家の不便さがぼくらの気持ちを少しばかり軽くしていたように思う。(トイレは汲み取り式で、土壁は剥がれかけていて、床は抜けているところがあった、などなど。)

そんな家に、スタッフの大半が一緒に住んでいた。リビング(といえば聞こえはいいがこたつがあるのみ)を除く全ての部屋にはほとんど余白を残さないほどに布団か二段ベッドが置かれ、まさに「足の踏み場もない」ほどだった。

あれはもうすぐ冬も終わる、という日だった。高校入試を間近に控え、休みはほとんどなく、ぼくも、子どもたちも疲弊していた。授業を終えて、振り返りをして、次の日の準備をして。帰るのはいつも深夜だった気がする。東北のあのまちは、まだまだ寒かった。

いつもは帰りながら上を見上げることが多かった。星がきれいだったからだ。でも、あの日は違った。ぼーっと前を見ながら自転車を漕いでいた。きっと疲れていたのだろうと思う。寒いなあ、早く家につかないかなあ、でも家に帰ってもなあ、と自転車を漕いでいると、ふと見慣れない明かりが目に入ってきた。車のライトの明るさとは違う。こんな時間になんだ?とよく見ると、それは電車の明かりだった。え、電車?と思ったと同時に、その数週間後に、このまちを電車が走る、と聞いたことを思い出した。そうか、試運転か。光を放つ電車の横にふと目を向けると、ある看板が目に入ってきた。

2013年3月女川町にて

「がんばろう!女川」

毎日通っているその道で、この看板に目を奪われたのは初めてだった。というか、その日まで、そこにこの看板があることさえ、意識したことがなかった。思わず自転車を漕ぐ足を止め、写真を撮った。こんな時間まで、このまちに電車を走らせるためにがんばっているひとがいる。いや、きっとこのひとたちの後ろにはもっともっとたくさんの人がいる。がんばっているのは、ぼくらだけじゃない、このまちなんだ。

そんな当たり前のことを、ガツンと言われた気がした。

2年前、女川の地を再訪した。当時の教え子たちと再会し、旧校舎の外で立ち話をしていると、耳慣れない音が聞こえてきた。電車だ、と気付くのには少し時間がかかった。

その音を意識したのは、どうやらぼくだけらしかった。彼らにとっては、その音も、あの看板も、もう日常であるようだった。

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Kiyoto Asonuma
exploring the power of place

京都生まれです。だからきよとです。元牛飼いで現大学生です。