ある女

私は自分のことを、あまり人に執着するタイプではないと思っている。少々強がりな自己認識な気もするが、いつからか「無理をするくらいなら1人でいる」という選択をとるようになった。事実、これまでの学生時代、常に行動をともにするようなグループの存在は窮屈だったし、クラス替え直後の教室に漂う「これから1年間、自分はどのグループに属そうか」と探り合う空気に居心地の悪さを感じてきた。その結果、中学生のときには既に、「去る者は追わず、来る者は拒まず」のスタンスで生きる生きやすさを知ることとなった。特別誰かに執着することがなければ、誰かを嫌うこともない。なぜそんなに偉そうでいられるのかと自分で自分にツッコみたくなるが、私にとってはこれが一番ストレスのない生き方なのだ。こんな私と仲良くしてくれている友人たちには、常々心の底から感謝している。

結局のところ、付き合いの長い友人は自分と同じようなタイプの人が多いように思う。付かず離れずの距離感を好み、何かしらの趣味なり価値観なりが合う人たち。自然と波長の合う人同士が集まり、何かが合わなかった人とは時間とともに疎遠になってきた。ほとんどの人がそうだ。

ただ1人を除いては。

彼女とは小学校で出会い、同じバレーボールチームに入ったことがきっかけでよく知るようになった。中学卒業までの8年間は同じチームでプレーをし、それからもズルズルと付き合いが続いている。男子にも負けず劣らずの運動神経を持ち、とにかく活発で常にクラスの輪の中心。感情のままに生きているかと思いきや意外と小心者で、石橋を叩きまくる上に誰かが渡ったのを見届けなければ絶対に渡らないような性格。末っ子なこともあってか、私に言わせてみればかなりわがままな性格だ。正直なところ、彼女と私の性格は何一つ合わない。得意不得意も、価値観も、気にするところも、譲れない部分も、全てが絶妙に合わないのだ。何度生まれ変わっても彼女のような人になれる気がしないが、彼女もまたそう思っている。

ところが不思議なことに、これまでの人生の中で最も付き合いが長いのは彼女だ。中学時代に撮り溜めた大量のプリクラには、ほとんど彼女が写っている。家も近所なのでよく帰路をともにしたし、部活がない日には最寄駅周辺をただぶらぶらするだけの時間を2人で過ごした。お互いの過去を最もよく知り、思い出のほとんどを共有している。気がつけば、自らを「親友」や「幼馴染み」などと名乗ることが恥ずかしいほどの近い関係性となった。付き合いの長さや会う頻度などを考えると「仲の良い2人」なことに間違いはないのだが、自分たちをそのように認識することに妙な恥ずかしさを感じ、本人たちは頑なに認めていない。なんともおかしな関係だ。

さて、なぜ私たち2人がここまで長く、そして濃い付き合いをしてこられたのかというのは、私の人生において大いなる謎である。本来の私であれば、ここまで合う要素がない人とはどこかのタイミングで疎遠になっていてもおかしくない。冒頭に述べたように、私はあまり人に執着するタイプではないはずだ。誰かと喧嘩になることはほとんどないのに小学生のような言い合いをしょっちゅうしたり、なぜだか彼女に対しては小姑みたいなことを言ってしまったり、彼女との間では色々とおかしなことが起きている。それでも、そんなこんなで出会って15年目に突入した。これまでのように「合わないなあ」と思いながらも、そして決して仲が良いことを認めないままでも、お互いの人生を近くで見ていくのだろうと確信に近いものを感じている。不思議でおかしな関係がどこまで続いていくのか、これからも未踏の地を開拓していく。

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