いずれ来る日

📆A Day to Come

Fumitoshi Kato
exploring the power of place
4 min readJul 9, 2018

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不定期ではあるものの、ここ数年、同門の仲間たちとの食事会が開かれている。たまに会って、中華料理を食べながら、近況を伝え合う。世の中のこと、職場のこと、趣味のことなど、毎回、いろいろな話題を行ったり来たりになる。数日前の集まりでは、いつの間にか『徒然草』の話になっていた。どのような流れだったのか、詳細はよく覚えていない。たしか、その内容ではなく、もっと一般的に「作品の価値はどのように生まれるか」という話がきっかけだったと思う。

『徒然草」は、日本の三大随筆の一つだと言われているが、書かれたのは1300年ごろ。それが江戸時代になってから評価され、多くの人びとに愛読されるようになった。つまり、書かれてから300年ほど経って作品に光が当たり、ようやく「古典」になったのだ。〈いま〉を生きる同時代には評価されなくても、300年という時間を経て、認められることもある。時代が、作品に価値をあたえたのだ。

考えてみれば、絵画などは、作者の没後に評価されることが少なくない。そのことで、作者はふたたび作品とともに息づいて、さらに長生きすることになる。同時代的に評価されないのは、多くの人が理解できない、着いて行けないからだ。別の言い方をすれば、作者が、ずいぶん先を行っているということだろうか。

だが、時間の流れがすべてを決めてくれるわけでもない。300年、あるいはそれよりもさらに遡るとしても、誰かが発見して、ある文脈に位置づけるからこそ、価値が生まれるのだ。もちろん偶然もあるはずだが、誰かの「目に留まる」ことがなければ、作者が息を吹き返すことはないだろう。そう考えると、ぼくたちが心がけなければならないことが、少なくとも二つある。

まず、いずれ誰かに発見してもらえるように、誰かの「目に留まる」ように、一つひとつの仕事を丁寧に残すということだ。ぼくたちは、ネットワークのおかげで「検索する」ことについては、だいぶ能力を高めてきたように思えるが、「検索される」ことへの想像力は、まだまだ足りないのかもしれない。発見されるためには、きちんとそれなりの形に残しておかなければならないのだ。いま、まさに昔の資料を体系的にまとめようと試みている。だが、300年どころか、20年前のじぶんのファイルにさえアクセスできずにいる。日頃の整理が疎かでデータが散在していることもあるが、ディスクがあっても読み取るドライブがない状態だ。だから、発見に備えて適切な媒体をえらぶことも大切だ。

そして、もうひとつは「いい」か「悪い」かの判断はひとまず保留して、「先送りする」ことだ。ぼくたちは、日頃から白黒つけようとすることが多い。「わからないこと」「決められないこと」「どっちでもいいこと」はたくさんあるはずなのに、いつも白か黒かを決めたがる。「グレーゾーン」は、多くの場合は否定的なニュアンスで語られる。だが、もし遠い未来に誰かに発見される可能性を残しておこうとするなら、なるべく捨てずにおくことだ。少なくとも、迷えるほどには取っておくのだ。じぶんで管理するのが面倒なら、誰かに託してもいいだろう。いずれにせよ、〈いま〉の評価や判断は、暫定的なものだと考えてみる。つまりそれは、白黒のあいだの揺らぎを、もっとポジティブに受け容れるということだ。あるいは、さらに一歩すすんで、積極的に「どっちでもいいこと」の曖昧さを愉しむくらいのほうがいいのかもしれない。

ぼくたちは、300年後を目指しているのだから、べつに〈いま〉は評価されなくてもいい。それは、開き直りのように聞こえるにちがいないが、いずれ来る日を考えると、少し気持ちが楽になる。そして、そう言いながら、〈いま〉に執着しているじぶんに気づくのだ。🐸

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Fumitoshi Kato
exploring the power of place

日々のこと、ちょっと考えさせられたことなど。軽すぎず重すぎず。「カレーキャラバン」は、ついに11年目に突入。 https://fklab.today/