「うち」の工夫

Yoko Sasagawa
exploring the power of place
4 min readMay 19, 2020

2012年のツナ缶に、2011年のシチュー缶、そしてまさかの2004年のローリエまで。賞味期限が、うんと昔のスパイスや缶詰が棚の奥から発掘される。ずっと気になっていたキッチンの使いづらさをどうにかしようと思い立って早3日。調味料用の棚の中を一度整理しただけでこんなに古いものがドッと出てくるものだから、他の所も気になってしまう。一度始めたら止まれない状態になった私は、結局1週間ほどかけてぼちぼちと台所を綺麗にしていった。「へぇ〜こんなものもうちにあったのか〜。」なんて感心しながら進められるけれど、意外と体力を消耗する。片付けの途中では大量に出てきたごぼう茶を飲みながら休憩を挟んでいた。

そんな休み時間には、よくスマホのカメラロールを見返した。私のスマホには、誰かと一緒に写っている写真が多い。タイ旅行の写真も、去年の公演期間の写真も、大学の鴨池のほとりでの一コマも。こうして手元に残っている切り取られた一瞬には、今まで出会ってきた顔たちが揃う。他にも保存するものはあったはずなのに、なぜかどうしても人の写真ばっかり残してしまう。生活のリズムも掴んできて、「STAY HOME、もう慣れたよ。元気にやってるよ〜。」と言いながらも、このカメラロールの中の誰かと大学のどこかでたまたますれ違って、そのまま芝生の上でのんびり語れる日を待ち望んでいる。

そんな風に人の顔が多く並ぶカメラロールの中で少し異色だったのは、おととしのゼミの活動、渋谷区桜丘のフィールドワーク中の写真だ。フィールドワークをしている時には、意識的にまちの色々な要素に目を向けようとするからだろう。人のいない景色の写真が残っている。とりわけ、桜丘は再開発エリアの対象になっていたので、もうすぐなくなってしまう景色を残しておきたい、という勝手な思いもあったのかもしれない。大抵の写真はクラウド上にあげてしまうけれど、当時町の看板をトレースして描いていたイラストが何枚かは手元に残していた。力強くネオンの灯る老舗の大衆食堂の看板、串カツ店の看板、映画「君の名は。」のワンシーンにもなった書店の看板に、老舗の大衆名酒場の看板。今は全て閉店してしまったお店の看板だ。そういえば大衆酒場の看板は、桜丘の再開発エリアに含まれない新店舗に新しく引き継がれていた。

中には、閉店していないお店のイラストもある。1番右下の写真はレモンライス東京(Lemon Rice Tokyo)の看板。他の店舗と比べると新しい。フィールドワークをする時に気になって”いつか食べる”リストに入れたまま、チェックを付けていなかったお店だ。ふとあのお店の前にずらっと並んだカラフルなスパイス瓶が頭をよぎり、まだ食べたことのない、スパイスの香る鮮やかなレモン色のごはんが急に食べたくなってきた。

「あ、そういえば、今さっき見つけたターメリックやカルダモンがあったな…!」片付け中に棚から見つけた小瓶のスパイスを思い出して、今日のお昼のレモンライスにはこれを使うと決めた。いつもなら市販のルーと簡単な調味料で済ませてしまうカレーも、この日はシーフードとスパイスを入れてぐつぐつと煮込んで手間をかける。それは、もちろんお店のものには及ばないけど、美味しかったし、おまけに久々に母と並んで料理をすることができた。掃除中の小さなひらめきのおかげだ。いつか店舗でテイクアウトすることができる日が来れば、また必ずできたてを食べに行こうと決めて、新たにリストに追加した。

かつて南極の厳しい環境における建物(昭和基地)の役割を探った極地で、建物内の居心地を調べた研究を耳にしたことがある。同じ極地の閉鎖空間という条件でも、建物に閉じ込められていると感じる場合と、リラックスできると感じる場合に分かれるらしい。前者は”isolation(閉じ込める隔離)”で後者は”insulation(保護する隔離)”と呼ぶ。つまり、居心地は既に建物に潜むものでなくて私たちがそこに見出すもの、ということだ。現在の「うち」にいる時間の長い日常にも、私たちは小さな発見や工夫次第で、新たな過ごし方を見出せる。かつてニュートンがペスト禍の故郷で研究に集中した時間が創造的休暇と呼ばれるように、今を「うち」の中にあるものからヒントを得て、小さな工夫を重ねる期間にしたいと思った。

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