おしゃべりな破線

はしもとさやか
exploring the power of place
4 min readOct 10, 2017

突然だが、この図をみてほしい。あなたは、それぞれの破線が何を表現しているかわかるだろうか。

勘のよい人はピンとくる場合もあるが、多くの人は首をかしげるのではないか。しかし、こうするとどうだろう。

これらの情報が付加されただけで、上の2つは切り取り線、左下は折り線、右下は縫い目だと即座に判断するのではないか。

そもそも、切り取り線とは破線の一種である。一本に繋がっている実線に対して、切れ目があるものを破線と呼ぶ。破線には切ることを促す切り取り線の他に、色々な種類がある。上図のように折ることを示したり、服飾品のステッチとして現れたりする。あるいは、立体物の図面では見えない線を破線で表現する。すこし調べると、切り取り線を含めた破線の表し方に明確な決まりはないことがわかる。しかし上図の例からわかるように、我々はほんのわずかな情報が与えられていれば、破線が何を意味するかわかるのだ。「おしらせ」に対して「参加/不参加」と書かれていれば、どちらかにマルをつけて提出するのだろうと予測する。「チケット」は、入場の証にもぎられるのだろうと想像する。1枚の紙を鶴の形にするには、山折りからはじまるのだと思っている。取っ手があるのならばカバンで、破線は縫い目だろうと認識する。

これらの判断はすべて、我々の経験から導き出される。言語による説明がなくとも、過去に出会った破線との記憶の蓄積によって、目の前の破線の意味を理解する。そしてそれは多くの場合、無意識のまま身についた生活の知恵である。これはほんの小さな一例だが、どんな場面に対しても言えるだろう。我々は知らず知らずのうちに、あらゆるモノやコトへの判断を身につけ、それを〈当たり前〉だと思い込んでいるのである。これを、文化人類学者のエドワード・T・ホールは「沈黙のことば」と呼んだ。

この研究室に所属してから、いろいろなフィールドワークを行ってきた。さまざまな空間で、多様な人びとと出会うたび、私自身に数多の驚きや発見がもたらされた。例えば「爽やかな解散」というテーマで、移動式の黒板装置を使い場づくりの実験をするフィールドワークを行っていたときのことだ。我々は子どもたちと共に黒板に何かを「描く」ことのみを想定し、チョークをひとつの道具として用いていた。しかしあるとき子どもたちは、チョークを粉々にして手に塗りこんで遊び始めた。その手を黒板に押し付けて、スタンプのインクのように使ったのである。子どもたちは新しい遊び方に興じ、黒板はちいさな手形でいっぱいになった。チョークは「描く」ものだと思い込んでいた私に、少なからず衝撃を与えたできごとだった。

また、「いけずなまち」というテーマでみなとみらいをフィールドワークしていたときに出会った、忘れられない光景がある。わたしはまちを新しい視点で見つめようと四苦八苦していた。いずれ疲れてぼんやり歩いていると、外国人観光客たちが思いもよらない場所に座り込んでいた。そこは完全に通路のような、日本人なら休憩場所に選ばないだろうという空間だった。そんなところに座る!?という驚きとともに、無意識のうちに空間の使い方を決めつけて、判断している自分に気づかされた。私と彼らは同じ空間に存在しているが、見えている世界は全く異なるのかもしれないのだ。

破線も、チョークも、みなとみらいのまちも、私に語りかけている。–君が〈当たり前〉だと思っていることは、本当に〈当たり前〉なのか?– 私たちのモノやコトのとらえ方は、自分の生きてきた環境や今までの経験に依存し、想像以上に凝り固まっているのだろう。一人ひとりの「沈黙のことば」は見えない切り取り線となり、あなたと隣人の世界を分断しているのかもしれない。

【参考文献】『沈黙のことば(文化・行動・思考)』1966,エドワード・T・ホール:著, 國弘正雄・長井善見・斎藤美津子:訳, 南雲堂.

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