おわり。はじまり

Ayako Moribe
exploring the power of place
4 min readFeb 19, 2020

連日恵比寿に足を運んだのは2年ぶりだった。かつては毎日通勤していたまちだったが、退職してからはすっかり疎遠になっていた。足しげく通った飲食店を思い出しながら、その店の前を通ってみる。当時と変わらぬ佇まいを目にして、安心した自分がいた。

所属する研究室で年に一度開催している展覧会のために、準備と会期を含め4日間、朝から晩まで恵比寿にいることになった。駅から会場となったギャラリーへ続く坂道は、1本裏通りの方が日陰が少なくあたたかい。風は冷たかったが、日差しが心地よかった。光はギャラリーのなかへもやさしく差し込み、時間の移り変わりを感じられる空間だった。

新卒で入社して間もないころ、慣れない仕事に手こずり、ようやくひと段落してオフィスの外に出たら、すっかり日が落ちていて悲しくなった日のことをふと思い出してしまった。出社した朝の景色から、真っ暗になってしまった変わりように驚きつつ、日が暮れるまでの長い「あいだ」を何も感じられなかったことに、とてつもない虚しさを覚えた日だった。一日のはじまりとおわりを知っていても、満たされない何かがあった。

社会人生活のはじまりを迎えた恵比寿というまちで、私は2年間の大学院生活のおわりを迎えることになった。偶然とはいえ、なんだか不思議な縁を感じた。

展覧会には、かつての同僚も足を運んでくれた。転職した人もいれば、同じ会社で勤務を続けている人もいる。みんな過去に恵比寿で一緒に働き、同じ時間を過ごした経験は、まちへの親しみと信頼感をもたらしているように感じた。先輩、後輩、同期、家族、たくさんの人が展覧会に足を運んでくれ、作品を囲みながら話が弾んだ。

あぁ、こうしておわりを迎えるんだなと思うと、どこか少しさみしくもあったが、なぜか、これで終わってしまうというよりは、また会えるような気持ち、これからも続くような気持ちが強かった。なぜなら、恵比寿のまちでこうしてまた会えたから。だからどちらかと言えば前向きというか、新しいはじまりだと思った。

今まで、「おわり」に対して、感傷的になりすぎたり、どうやってきれいに幕を閉じるべきなのかということばかりを考えたりしてきたように思う。もちろん、気持ちよく、悔いなく終わることは大事だと思うし、それを目指したい気持ちに変わりはない。私は学部を卒業し、就職して働いたのち、仕事を辞めて、大学院に入学した。あっという間の2年間を経て、修了間近の今になって思うのは、おわりを迎えたその先のほうが、まだまだ長いということ。やがて、年齢を重ねていけば、ある地点からはその先よりも「今まで」のほうが長くなっていくし、節目となるタイミングは必ずくるのだけれど、それですべてが終わってしまうわけでもないと思うと、少し気持ちが楽になった。

便利な技術のおかげで、離れていてもかんたんに連絡をとれるし、会うための移動もさほど難しくない。いろいろなやり方でやりたいことには挑戦して、失敗してもまた挑戦すればいい。少しずつ年齢を重ねていることはまぎれもない事実だが、まだまだ若いと思って、大いにチャレンジしたい。はじまりとおわりをあとどれくらい繰り返していけるのか楽しみでもある。

帰ってきたという感覚とは違っていたが、私の社会人生活のはじまりからおわりまで見守ってくれていた恵比寿というまちは、どことなく温かみを感じた。どういうタイミングでかかわりを持つのか、持てるのかはわからないけれど、かかわりを絶たないことは自分の意思によるところが多いのだと思う。少しであっても気にかけたり、足を運んだり、そこまで積極的になれない自分でも、細々とでも続くかかわりが、まちや人びととの再会をもたらした。

2年前に社会人生活に一度区切りをつけたこのまちで、いま再び人生の節目のタイミングを迎えることとなった。次に何が始まるのかは私自身もわからない。まだまだまわりのみんなに心配をかけつつ、久しぶりに恵比寿からの終電に乗った。

Fullmoon @ebisu 2015.9.25 展覧会最終日(2020.2.9)も満月の下を通って帰った

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