かぞく会議

Kazuki Nishizaki
exploring the power of place
4 min readJul 17, 2016

『かずき、来週帰ってこれるか?』

携帯電話が鳴り、手に取ると父からだった。父から電話が来る時は、大好きな横浜DeNAベイスターズが劇的勝利を収めた時か、“かぞく会議”の開催が決まった時だ。

私の家族では、“かぞく会議”がごくたまに開催される。私が記憶している中で最初に開催されたのは、私が小学3年生の夏だった気がする。当時大阪で単身中の父が、家族の住む埼玉の家で開催したものだった。その時の議論は、全員で大阪に引っ越さないか、という話だった。それ以来、私たち家族の間では、“かぞく会議”が開かれるようになった。祖父母と共に2世帯で暮らし始める時、祖父が亡くなった時、姉が大学受験に失敗した時、私が1人暮らしを始める時、妹が進路を決断する時。個人として、家族として、大きな出来事が起きた時や、大きな選択を迫られた時に家族で話し合うのだ。

電話から1週間後、私はかぞく会議に参加するべく、実家に帰った。何について話し合うのか、それはかぞく会議が始まるその時までわからない。そして夕食後、父が家族を集めた。

『めい(私の姉)から話があるらしい。俺も何の話か知らないけど…それじゃ、めいよろしく。』

すると、姉が少し言いにくそうな表情をしながら重い口を開いた。

『楢葉に戻りたいと思っている。』

ちょうど1年半前、姉主催でかぞく会議が開かれた。大学に入学してから3年間、東北各地を訪れながら東日本大震災の復興支援に携わっていた姉は、1年間大学を休学して福島県楢葉町で活動しようと考えていた。姉は、放射能による将来の健康不安を口にする母と、「俺を説得できるか」と、本気度を疑う父を説得し、楢葉へと移った。お金を出さないこと、1年経った後は大学に戻り卒業すること、そして、大学卒業後は首都圏で就職すること、この3つが条件だった。当時私は、「姉貴が行きたいなら応援する。」と、反対することなく姉の背中を押した。しかし、今思うと父と母が、娘を原発警戒区域へと送り出すというのは、かなり大きな決断だったと思う。1年間、母の頭の中は姉への心配でいっぱいだったように見えた。そして今年の春、姉は無事に楢葉での活動を終え、また普通の大学生活へと戻った。就職活動も順調に進み、内定をもらうことができたとの報告も受けた。そんな中で突然開催された、かぞく会議だった。

6畳の部屋で行われる“かぞく会議”

『楢葉に戻りたいと思っている。』

姉の言葉で、父と母の表情は一気に曇った。おそらく、姉がこう言いだすことを2人とも勘付いてはいたのだろうが、「ついにきたか。」というような反応だった。

『うーん。続けて。』

一瞬だけ顔をあげ、父はそう言うと、また俯いた。
ひと通り姉が話し終えると、意見交換が始まった。“かぞく会議”はここからだ。ルールは、人が意見を言っている時は全員聞くこと、それぞれが思っていることをすべて口に出すことだ。妹、私、祖母、母、そして父、と順番に意見を言う機会が設けられた。

『行ってもいいと思う。』
『大学生だったから向こうでうまくやれていただけではないのか。』
『就職してスキルを身につけてから、また行けばいい。』
『1年半前の約束を破ることになる。』
『考えが甘いのではないか。』

それぞれが思い思いに意見を言っていく。「誰かがこう言っているのを聞いてこう思った。」、は厳禁だ。「それは自分の意見ではない。」と父は言う。どのような意見であろうと、1つの意見として受け入れるのが父の意向だ。

『最後はめいが決めなさい。』

約2時間、全員で議論をし尽くした後、父は最後にこう言った。この言葉を聞いた時に、私はハッとした。父は大反対のはずだったからだ。
最後は娘を応援する、そんな“父”としての決断を目の当たりにし、その背中はとてつもなく大きく見えた。

両親は昔から、私たち兄弟を、“子供”ではなく、“小さな大人”として育ててくれた。泣いた時は、寄り添って抱きかかえるわけではなく、泣き止むまで手を差し伸べずに待って話を聞く。むやみに怒って正しいことを教えるのではなく、どうすることが正しいかを自分で考えさせてくれた。おかげで大きく道を外すことなく、自分の好きなように生活することができている。気付けば、“小さな大人”は“大人”になっていた。

--

--