「ぎこちない」からはじまる

私は「ぎこちない」が好きだ。「あの二人なんだかぎこちないよね」は、「本来二人の関係はもっとスムースにいくはずなのに、今のぎこちない状態を二人とも気にしてるんだよね」が背後に存在している。上手くコミュニケーションできていないから、あるいはお互い慣れてないことが原因で今は「ぎこちない」が、二人の関係は「ぎこちない」から「何らかの別な関係」に発展していく過程にあるのだ。「ぎこちなさ」を早く解消したいと思うのが人の常であるが、お互い何らかの関係を保つ前提があってはじめて「ぎこちない」でいられるのではないかと思うようになってきた。「ぎこちない」は手探りながらも相手との距離をあれこれ思う気持ちの現れなのだ。お互いコミュニケーションをする意志を放棄した突端、「ぎこちなさ」はあっという間に姿を消してしまう。「ぎこちない関係」から「関係」が消滅し、「関係なし」になってしまうのだ。そこには「ぎこちない」は存在しない。

もう一つの私の「ぎこちない」好きは茶道のお稽古からくる。他にも「ぎこちない」経験は山ほどあるが、「ぎこちない」指数マックスは茶道のお稽古を始めた時のものだ。膝をついて「ふすまの前に座り、まず引き手に近い方の手を引き手にかけて、三分の二開け❶、反対の手でふすまの下のほうを押して開けきり❷」(千, 1993)「扇子を前に置いて席中をうかがったあと、扇子を手にして敷居をにじって越え」(千, 1993)、扇子を前に置いてご挨拶。畳を歩くのは常に六歩。決して畳の縁を踏んではならず、「姿勢を正して、二、三歩前の畳を見ながら、ややすり気味に」(千, 1993)足を運んでやっと次客として席に着けるのだ。最初はスムースな動きなど到底できず、何だかロボットみたいねと先生に笑われる。末席に座るお稽古とふくさのつけ方やふくささばき、茶巾のたたみ方を習う割り稽古を経て、いよいよお手前の稽古に進む。この頃になると、「えーっと、最初は扇子を自分の前に置いて、左手で襖を三分の二開けて。。」、「えーっと、次は。。」をしなくても、さっと自分の席につけるようになる。襖を開け席中をうかがう仕草や扇子を前に置いてするおじぎもそれなりになって悦に入り、最初の「ぎこちなさ」を忘れて堂々としてくるが次の「ぎこちなさ」がやってくる。

戸口の開け閉め ふすまの場合(千, 1993)

また再び「えーっと。。」、「次は。。」、「道具畳の「中央にすわって、建水を左わきに置き❽」(千, 1993)」、「でも置いたあと何から始める?」。先生から「柄灼です」と声がかかる。「そうだ、左脇に置いた建水の上の「「柄灼を左手で少し持ち上げて蓋置を右手で取❾」るんだった」。「それで、えーっと、この右手で取った蓋置はどこに置く?」。私の動きが止まるとすかさず先生から「左前に」と声がかかる。「ぎこちなさ」マックスでも先生に声をかけられながら何度か稽古をするうちに、一連のお手前の動きを習得していくのだ。不思議なのはある時、建水を左脇におき終えた後、何も考えずに左手がさっと建水の方へ出るようになるのである。ここで新たな「ぎこちなさ」も消滅し、流れるように薄茶を立てる一連の動作に移っていく。

風炉薄茶・運び手前(千, 1993)

「ぎこちない」は何かがはじまった証なのだ。「ぎこちない」真っ最中は余裕などないが、振り返ると「ぎこちなさ」をどう攻略していくのかを考えるのは楽しいことだと気づく。離れていたものに近づく。その関係や距離は次の段階となり、新たな「ぎこちなさ」が生まれて、近づく。また再び離れていることに気づき、近づくを繰り返す。「ぎこちなさ」をひとつづつクリアしていくその瞬間が愛おしく思えてくる。「ぎこちない」に出会えたらそれはラッキーかもしれない。私の中に存在する「ぎこちなさ」は、近づくと身体の中からいなくなってしまう。だから出会った「ぎこちない」様子や感じたことを書き留めておきたい。振り返ると何かが見えてくるかもしれない。

「規矩作法守りつくして破るとも離るゝとても本を忘るな」―――千利休

参考文献:

千 宗左. 表千家茶道十二か月 /. 新版. 東京: 日本放送出版協会, 1993.

井口海仙, and 綾村担園. 利休百首 /. 京都: 淡交社, 2000.

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