くっつかなくても、あったかい

相手との心の距離は、近いものほど素晴らしく、遠いものほど価値がないように思える。電話で長時間話せて、SNSの裏アカウントでフォローされたら、距離が近いように感じられて嬉しい。心の距離を測る様々なものさしのなかでも、「どれほど誕生日に近い日程で祝えるか」が相手との距離感をみるための分かりやすい指標なるのではないかと思う。一番仲が良いと自信を持てる相手に対しては「誕生日の予定を開けておいて」と頼めるが、そうではない人に対しては「今月会いたい」と連絡する。大学に入ってから、「今月会いたい」系の友人が圧倒的に増えた。コミュニケーションの土台をそれぞれ別のところで築きあげてきた私たちは異なる文化的背景を持っており、それによって生じるすれ違いを避けるように、距離を縮めようと必要以上に働きかけない。私は、大学で出会った友人たちとのあいだにある距離の遠さを感じては、なんだか寂しい気持ちになっていた。

高校時代を私は寮で過ごした。その寮では受け継がれてきたいくつかの慣例があって、そのうちの一つが誕生日の祝い方だった。誕生日の1週間ほど前になると、仲良しグループが主体となって、色々な人からの手書きメッセージを集めた大きなバースデーカードを作った。そして誕生日当日のディナーでは一番仲の良い友人や恋人などを中心に校内アナウンスをかけ、食堂でHappy Birthdayを歌った。このように寮生活では周囲に対して関係性を明示する場面が生活のなかにいくつも組み込まれていた。そのなかで、「親友」だとか「グループ」だとかの枠組みに自分たちの距離を当てはめ、確認し合う作業を繰り返した。関係性に対する認識が共通したものであるからこそ、お互いの存在に安心感のある温かさを感じていた。趣味も物事の捉え方も全く異なるが、それでもお互いをとても近い距離で認識している。私たちは高校時代に一緒に悪さをして、一緒に謹慎処分を受けたからこそ、自分たちのあいだに強い繋がりを感じるようになった。一方で、彼女たちとの距離が縮まるほど、他の友人たちからは離れていく感覚があった。

誕生日当日は高校時代の友人と祝う

大学に入学してから、私の好きなものを同じように好きだと言ってくれる人に多く出会うようになった。おすすめされた本や映画が何度も見返すほど自分にぴったりだったことは大学入学以前に経験したことがなかったため、とても新鮮で嬉しかった。それでも、LINEをだらだら長く続けるというより、Instagramのストーリーに対してたまに反応する程度の距離感を保っていて、誕生日には「今月会いたい」と連絡する。こんなにも嗜好が似ている人とはなかなか出会えないのに、私たちの関係が、私たちのあいだだけで完結してしまうことが勿体ないような気がしてならなかった。「共感しあえる人」として相手の考えを全肯定して、私のそばにじっと佇む冷たい孤独感を紛らわしたかったのに、一向に距離は縮まらなかった。

去年、丸の内にあるイタリアンレストランでそれなりに仲の良い大学の友人と食事をした。私はポトフを、彼女はトマトパスタを食べながら、話の流れで日記を共有することになった。私のものを読み、「共感できるわけではないけど、たぶん理解はできる」と彼女は言った。この言葉がすんなりと心に入ってきて、じんわりとした温かさを感じた。相手に無理やり近付こうとするのでもなく、離すわけでもない彼女の受け入れ方が好きだった。そうやって共感できること、できないことを確認しながら相手を見つめていくことで、距離の近さや遠さに関係なく温もりが感じられるのだと気付かされた。私たちは何かと相手との距離を測りたがる。性別、人種、食生活などの表出しやすい指標を頼りに距離を見定め、グループ分けをしながら他人を見ていたら、温かさを感じる機会が少なくなってしまうのかもしれない。他人と同化せず、完璧に理解できるなど思わず、枠組みを情報の一片だと認識しながら一人ひとりに対して真摯なまなざしを向けられるように生きていきたい。

--

--