ここは昔

Ayako Moribe
exploring the power of place
4 min readDec 19, 2018

去年の夏、友人たちと久しぶりに飲んだ日があった。なぜこのメンツが集まったんだろうと思うくらいの珍しい顔ぶれだった。仕事をできるだけ早く終わらせて冷たいビールを飲むことしか頭になかったのだが、集合時間には間に合わず、一人遅れて合流した。

LINEで送ってもらった食べログの地図を頼りに、行き慣れない道を進む。渋谷駅からは近いはずだが、知らない場所というだけでとても遠くに感じた。店の扉を開けると、肉を焼く煙が充満していて、見る限り満席だった。大きな笑い声がどっと聞こえてくる。たくさんの人がお酒を楽しんでいた。あっという間に時間が過ぎ、やや窮屈だったこの場所にほろよい気分で別れを告げた。どことなくみんなテンションが高く、店から駅までの道で写真を撮った。車通りも少なくて暗く、近くの店の明かりを借りて肩を寄せ合いながら自撮りした。あのメンツで写真を撮ったのは、後にも先にも一枚しかないと自信を持って言える。そんなささやかで貴重な思い出となった。

この前、渋谷駅からすぐの桜丘のまちを歩いた。再開発が始まろうとしているこのまちは、二度と開くことのないシャッターの降りた店が並び、工事のフェンスで囲まれている場所が目立った。私は写真を撮りながらゆっくりと歩いてみた。しばらく進んだころ、なんとなく見覚えのあるような場所にいる気がして、路地を曲がってみると、そこにあった。煙が充満して窮屈だったあの店だった。あれからおよそ1年半。ここも再開発の対象区域となり、当時の熱気が想像できないほどに静まり返り、店のドアにはスプレーアートが施されていた。そしてその上から「作業員詰所」の張り紙。もうあのメンツで集まることはないと思っていたが、店にも行けなくなるとは思ってもみなかった。

あの日の写真を探ろうと、当時のLINEグループを開いてみた。残っていたのは少しのメッセージと送ってもらった食べログのURL、店内で何枚か撮ったものと最後の集合写真だった。食べログのURLをタップしてみると、URL無効との表示。店の名前を検索してみても【閉店】の文字が表示された。あっけなく終わりが来たように思ったが、その店の最後の日を知るわけでもないし、あのときのたった一度しか行ったことがない。でも、たった一度であっても、その場に入ったことがあるのとないのとでは、大きな違いである。店の中を知っているというだけで、私は急に親近感を抱いてしまった。なぜ、この場所が「詰所」となったのかはわからないが、詰所となっている以上、しばらくは取り壊されずに残るのだろうか。店の側面の壁には、「通行止のお知らせ」の看板が掲げられている。年が明けたら、今自分がいる店の正面に立つことはできない。建物が壊され、面影を感じなくなったら、この場所を思い出せなくなってしまうのではないかと、少し立ち止まってしまった。

今は作業員詰所となった、あの日の飲み屋

そういえば幼いころ、父と実家の最寄り駅前のスーパーの前を通りかかったとき、「ここは昔、蓮田だった」と言っていたのをふと思い出した。そんな手がかりは私には全く感じられなかったのだが、何かをきっかけに復元された景色が父のなかにはあったのだろう。

めまぐるしく変化していくまちの様子を横目に、ここは昔…と私も誰かに話すときがくるのはもう少し先だと思ったが、意外とすぐのことかもしれない。あのころからずいぶん月日を重ねて、父の目線にもだいぶ近づいた。かつて歩いた駅前も、その面影をうっすら感じるくらいで、今はすっかり変わってしまった。それでも正月飾りを売るテントが、スーパーの前のなじみの位置に出ている景色を年末が近づいてくると思い出す。年が明ければ、きれいさっぱりなくなるテント。姿やかたちが見えなくなってしまっても、立ち止まってさみしくなる必要はない。季節やそのまちの雰囲気、ささやかな思い出から感じられる面影が、きっとあるはずである。

もしまた一緒に歩いたら、お互いに何を言うだろうか。

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