さようならの旅

Chiharu Konoshita
exploring the power of place
4 min readDec 9, 2016

祖母が死んだ。

木曜日の早朝、母にたたき起こされた。まだ寝れるはずなのに、とぶうたれて目をこする私に、母は告げた。

「大野のおばあちゃんが亡くなったの」

一気に目が覚めた。どうして、という疑問と、ついに、という思いがこんがらがって、私は何も言えなかった。父が電話で伯母と話している声が聞こえる。大野のおばあちゃんは餅を喉に詰まらせて意識を失い、そのまま帰らぬ人となったらしい。通夜は明日、告別式は明後日だという。心の整理ができないまま、すべての予定をキャンセルして東京駅から新幹線にのり、福井県へ向かった。

大野のおばあちゃん、というのは父方の祖母のことである。祖父と伯母と共に、田んぼと山に囲まれた美しい田舎で暮らしている豪快なおばあちゃん。

四人兄弟の末っ子として福井県大野市に生まれた父は就職する際に上京し、東京で生まれ育った母と結婚した。その後、私と妹が生まれて、以来ずっと東京で暮らしている。だから私にとって大野という地は、東京から離れた遠い遠い田舎である。

お盆の時期に家族全員でこの田舎を訪れるのが、我が家の恒例行事だった。車で高速道路にのり、9時間ほどかけて大野を目指す。私はこの年行事を、今まで一度も欠かしたことがない。習い事で大忙しだったときも、受験生として勉強に励んでいたときも、どうにかして時間をつくった。今年の夏、妹は大学受験準備のために行かない、という選択をしたけれど、私は父と二人で大野へ向かった。

大野の祖父母は、私を見ると信じられないほどの勢いで喜ぶ。「東京の孫がきた!」とはしゃぎ、「来てくれてほんとにありがとう」と私の体を抱きしめる。大野を訪れるたびに私の背は伸びて、祖父母の顔の皺は増えていった。ここ数年は、会うたびに口をそろえて「もうあかん」「もうすぐいっちまう」と言うので、私はどう返せばいいのかわからなくて困っていた。

今年の盆に大野を訪れた際、祖父が「東京のおとうさんおかあさんは、しょっちゅうチハルちゃんに会えていいなあ」とぼやいているのを耳にした。この言葉が頭にひっかかり、私は今までいったいどれくらいの時間を大野の祖父母と共に過ごしたのだろうと考えてみた。
毎年必ず訪れているとはいえ、一回の滞在はだいたい4、5日間だ。改めて計算してみると、私が今までの22年間で大野の祖父母と過ごした時間は、全部で100日ほどしかなかった。

たった100日間。
この数字に、私は驚いた。想像していたよりも、だいぶ少ない。私は今まで祖父母のためにたった100日間しか時間を使っていなかったのか、と動揺した。これからの人生でいったいあと何日間、一緒に過ごすことができるのだろう。

私は、いつか祖母との別れがくることを知っていた。

大野は交通の便がとてつもなく悪いし、特におもしろいものがある場所でもなかった。それでも私が毎年どうにかして時間をつくっていたのは、祖父母には会えるうちに会っておかないといけない気がしていたからだ。それはもはや使命感のような、将来の自分を後悔させないための予防線のような、そんな切実さを帯びた気持ちだった。

最後に抱きしめてもらってから4ヶ月後。祖母は死んだ。

新幹線に揺られながら、私は深く息を吐いた。祖母の死の予行練習は今まで何度もしていたのに、どうしようもなく悲しかった。それでも、“今年の夏に会いにいくことができた”という事実が、私の心を少しだけ救ってくれていた。
隣の席では、妹が泣いていた。今年の夏に大野へ行かなかったことを悔いているらしい。私は彼女を励ますことも、慰めることもできなかった。

時間の使い方は、本当に難しい。なににどう時間を振り分けるのか、その選択に正解はない。今年の夏のことだって、私が正しくて妹が間違っていた、というわけではないだろう。
なにかを選べば、なにかを捨てなければならない。これだけでも辛いのに、さらに私たちは時間制限まで抱えている。会いたい人には会えるうちに会っておかないと、いつか会えなくなってしまう。

祖母の死と妹の涙から、気づいたことがある。
きっと、人と人との関わりは全て、いつかのお別れへと繋がっているのだ。
だからこそ、どうせなら少しでも悔いなく、爽やかな気持ちでお別れをしたい。なんなら、そのために生きたいとさえ思った。

爽やかな別れのために生きていく。それが人生なのかもしれない。

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