だから僕はファンを辞めた

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exploring the power of place
Dec 19, 2020

ちょうど『エルマ』の発売日から間もない頃だった。
幼稚園からの幼なじみ4人で、福岡旅行をした。ホテルの部屋に入ると、2段ベッドが2つ並んでいた。場所決め会議は案外スムーズに進み、私は窓に近いベッドの上段となった。皆が眠った後も、あまりに静かなせいだろうか、なんだかそわそわして寝つけなかった。車の走る音も、千鳥足で家路をたどる人達の騒ぐ声も何もない。音を立てないようにレースのカーテンをそっと捲ると、柔い月明かりが隙間から差し込んできた。こんな時こそ、と飛行機搭乗時に貰った簡素な白いイヤホンをiPhoneに挿して「ミュージック」を開き、緊張と期待を混じらせながらそのアルバムを再生した。
「音楽と初めて対面する瞬間」は、私にとって毎回特別な時間だ。ボーカルの呼吸音や、ギターの弦が擦れる音。その曲の全てを感じ取りたくて、いつも静かな真夜中に横になりながら聴いている。この日は特に特別だった。イヤホンから流れるメロディーも、今夜は私のためだけにあるような気さえした。こんなに静かで幻想的な空間で、こんなに綺麗な音楽を聴くことができるなんて。なんて私は幸せなのだろうか!……

『エルマ』と初回限定盤の「エルマが書いた日記帳」

思い返せばこれが、「ヨルシカ」というアーティストの純粋なファンでいられなくなる前の最後の瞬間だった。

『エルマ』リリース以降、ヨルシカはみるみるうちに知名度を伸ばしていった。店で、テレビのCMで、映画の主題歌で、ヨルシカの音楽が度々流れるようになった。人の「日常」に、ヨルシカは溶け込みつつあった。ファンにとっては、好きなアーティストが有名になるのは大変喜ばしいことであろう。そう表向きは同意していたが、心のどこかで物凄く忌々しい気持ちを抱えている自分が居たことを、どうしても認めたくなかった。「ファンなのに素直に喜べない」という自己嫌悪があったのだろう。それでもやっぱり心底嫌で堪らなかったのは事実で、Twitterでヨルシカの公式アカウントや”ヨルシカ”という単語を一時的にミュートしていた。

理由としては、ヨルシカが「大衆のもの」になってしまうのが怖かったのだと思う。この良さを知っているのは、あくまで「個々人」であって欲しかった。大衆に受け入れられるような洗練されたキャッチーさでなくとも、歌声や演奏から感じる若干の「荒削り」具合(失礼を承知で言っている)が本当に作りたいものを作っているようで、そこに居ないはずなのにまるで隣で歌ってくれているようで、少なくとも私はそういう音楽が本当に好きだった。つまり「全員にとって程よい距離」よりも、「限られた各々にとってゼロ距離」。それが私の求めるヨルシカの在り方だったのだが、たかが一ファンが秘める「変わらないで欲しい」という思いが届くはずもなく、自己嫌悪は進むばかりであった。

自己嫌悪から脱却する転機となったのは、最新アルバム『盗作』の音楽と、『盗作』についてコンポーザーのn-buna(敬称略)が受けたインタビュー記事である。結論から言うと、ヨルシカは最初から「誰のものでもなかった」。
『盗作』の曲は、夏の終わりを彷彿させるような切なさを持った、従来の「ヨルシカっぽさ」を殆ど含まないものが多い。そのことに関して実際にSNS上で賛否の分かれる議論も見かけたが、私にとっては心底救いであった。もはや崇拝の域で盲目的に追いかけていた「ヨルシカ」という偶像。それが人気になればなる程、私とそれとの距離がどんどん遠ざかっていく様に苦しみ、悩み、いつしか目を背けて見ない振りをしていた。そんな私のもとに、「自分は誰のためにも存在していない。ファンがどう思おうと関係ない、そんなもので自分は変わらない」との声が、「ヨルシカっぽくない音楽」を通して降ってきた。ある意味拍子抜けというか、とても吹っ切れた気分になったのを覚えている。
そうだった。私自身、自分が気持ちよくなるためにヨルシカの音楽を聴いていたように、n-bunaも自分が気持ち良くなるためにしか曲を書いていない。人のために苦しむのは、もうやめよう。だから私は「どうしようもなく面倒臭いファン」を辞めて、ただの「ヨルシカの音楽が好きな人」になった。

……常々言っている通り、僕は自分が気持ち良くなれればそれでいい。他人の為に作品なんて作ろうと思わない。

他人の評価だとか、「盗んだ」とか「盗んでいない」というのは本質ではないんです。そういう作品の本来の価値とは関係ないところで生産性のない議論をしている人たちを見ることを僕は楽しみにしている。この『盗作』を出した先にある聴衆の反応、そこで沸き起こる議論や反応を見ることこそが僕にとっての、この作品の本質です。

……ただの音楽作品として皆は聞けばいい。でも僕からしたら、メディアアートです。今回僕が作ったのは「盗作という題の作品」ではないです。「盗作という題の作品に群がる人達」という名前の絵です。否定的な意見も肯定的な意見も、発信した瞬間に全てが取り込まれて「盗作」という一枚の絵になる。俺はそれを安全な位置から見下ろして、好きなだけ鑑賞出来る。こんな面白いことがありますか。堪らないと思いませんか。

-ヨルシカ『盗作』オフィシャルインタビュー<後編>より

https://sp.universal-music.co.jp/yorushika/tousaku/

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