ちいさきもの
わたしはとにかく、ちいさきものを愛している。友だちと交換していたシール、種々のコンビニを探し回って集めたチロルチョコの包み紙、祖母に譲ってもらったブローチ、そして最近は豆皿を愛している。加藤先生は、「おべんとうと日本人」にて日本人のちいさきものへのまなざしをおべんとうづくりに見ていた。わたしはその「ちいさきものを愛でる」の章が大好きだ。今回は、わたしとちいさきもの、特に豆皿にまつわる話を書いてゆきたいと思う。
豆皿とは、手のひらサイズのちいさきうつわのことだ。様々な色、形のものが存在する。わたしは特に、作家の練習作のようなものを好む。少し形がゆがんでいたり、絵柄が崩れていたり、時にはホコリが被っているものもある。都会の小綺麗なお店に並んでいる真っ白い器よりも、骨董市にひそむ、少し翳りがあるものの方が、野暮ったいが気楽に使える。そして何よりお値打ちなところがかわいい!
お茶の世界で今も評価されている有名なお茶碗は、もとは庶民の飯茶碗であったという逸話がある。どんなものも、扱い方次第だ。野暮ったい、ちいさきものも、きれいに洗えば照りを取り戻す。使い方だって様々考えられる。大皿の上に乗せて小鉢として。お醤油を入れて手元に置けば、食卓に愛らしさを増す箸置きに。箸休めの酢のものを入れたら一石二鳥だ。
これに味をしめたわたしは、出先で豆皿を探すことが多くなった。そもそも故郷である岐阜県は器の名産地で、志野、織部、黄瀬戸など、安土桃山時代にお茶の文化と共に栄えたうつわがいくつかあった。我が家では毎年開かれる陶器まつりに参加することが恒例となっていて、わたしも喜んで行ったものだ。こうした習慣があったから、昔からうつわ選びには主体的だったのかもしれない。
ある年のお正月、地元の神社に初詣に行った。うちの氏神様であるここは、たびたび骨董市が開かれる。お参りをすませ境内をふらふら歩いていると、あるブースの奥の方にちいさきうつわを見つけた。植物と思われる絵柄が青色でちいさく描かれており、興味をそそられた。形もかわいいのだ。白地の菱形で、角は丸く内側にくり抜かれており、すこし薄い。4つ組み合わせればひとまわり大きな菱形ができ、6つ組み合わせれば星のような形ができた。これはおもしろい。いくつか揃えれば遊べそうだ。店主は、8つで400円にしてくれるという。すでに一人暮らしを始めていたわたしは、1人でこんなに使い切れるかどうか分からなかった。しかしちいさきものだからいくらあっても困りはしない。おじさんの上手なおしゃべりに負けて、家に持って帰った。
民藝運動を行った柳宗悦は、ただ個人の欲望による蒐集は悪趣味だと言った。その価値が、共有される形を取らなければならないと。ただ集めるだけでは、もったいない。
わたしはその年の2月から3月にかけて、フランスとイタリアを旅することにしていた。まだ顔も名前も知らない誰かとのきっかけになるかもしれない、そう思い、トランクに入れていくつかの豆皿を持って行くことにした。
道中のパリでは厚かましくも、留学していた先輩の家に少しの間お世話になっていた。先輩の家には同じように旅行に来た先輩が泊まることがあって、その日は3人で大衆食堂へ行くことになった。
そこはテーブルの上に大きな紙がひかれ、その上にドンと料理を置く形式だった。取り皿のようなものはなく、机の上にこぼして食べるのが普通のようだった。基本的に相席になっていて、わたしたちが先だったか後だったか、隣では老夫婦が食事をしていた。
しばらくして、その老夫婦が話しかけてくれた。フランス語が分からなかったわたしは、先輩が部分的に通訳してくれるのを聞いて理解していた。せっかくはるばる来たのだから、わたしも彼らと通じ合いたい。そんなとき、隙間を惜しんでポシェットに1枚の豆皿を詰め込んできたことを思い出した。
話がひと段落したところで、豆皿を取り出してご主人に渡した。使ってくれないかもしれない、持って帰るのがちょっと面倒かもしれない、そんなことを思いながら、しかしちいさきものだからと自分を勇気づけ渡した。するとご夫婦は心なしか喜んだ表情を見せてくれた。そして、食べていたお肉を少し分けてくれたのだった。
豆皿には、その人の生活の味覚がギュッと詰まっている。それはまた食卓において、文字通り味わう空間を作り出す。豆皿は人と人とをつなぐ、ちいさきメディアと言えるのかもしれない。
参考文献
- 加藤文俊.ちいさきものを愛でる.おべんとうと日本人.草思社,2015,p29–34
- 柳宗悦.茶と美.講談社学術文庫,2010,368p