つながる調味料

Nuey Pitcha Suphantarida
exploring the power of place
4 min readMay 19, 2020

朝の11時、明かりが灯るのは家のキッチン。ガタガタという音が響き渡り、二人がキッチンテーブルを回っている。一人がシンクでお皿を洗い,もう一人はストーブでポットを見守る。その二人は、P’ソーンとP’エー。彼らは去年から私の卒業プロジェクトの調査対象になった。彼らを今まで観察したことの中で、私たちはキッチンでのつながりが一番多い。彼らが働いている様子を観察するのは、いつも楽しみなことだ。

12時近くになると、P‘ソーンとP’エーは時計をちらりと見上げ、緊張した様子でドアの方を見る。今日のメニューは「イェン・タ・フォー」。ピンクの海に浮かぶ白いつるつるした米麺に、エビやイカが入っている。海沿いの夕日を思い出す一品。

P’エーは新鮮なイカや、つみれを洗ってお皿に入れる。P’ソーンはポットを準備できたらテーブルに移動する。鮮やかなオレンジ色の唐辛子を刻んで酢と一緒に小鉢に入れ、トレイの上に置いてテーブルに運ぶ。すべてのものがテーブルに置かれたら、食事の準備が完了。P’ソーンとP’エーは床に座って一息つく。

「イェン・タ・フォー」

ランチタイムは、週末を除けば、家族が集まる時間だ。それでも、同じ時間に食事をすることはほとんどない。 日本と違って、「いただきます」という言葉がない。思い出せば、お互いを待つこともあまりない。お皿がテーブルに着いた際、遠慮なくパクパク食べ始める。

キッチンに入ってくる人はテーブルの上に置かれた調味料を見れば、今日は何を食べようとしているのかすぐにわかる。腹が減っている人はすぐストーブに向かい、自分で好きなものを入れる。ただテーブルで座って、後ろの方に向かって叫ぶ人もいる。

“เอาแห้ง เส้นเล็ก ซุ๊ปมาด้วยนะ” 「ドライ、細麺、スープも!」

“เอาน้ำเส้นใหญ่ ไม่ใส่หมูสับนะ” 「スープ付き、太麺、ひき肉なし!」

3人、4人入ってくると、カオスの状況に近づく。その依頼を先読みしていたかのよう、P‘エーは中身を入れてゆで始める。

バウルを手前に置いたら、食べ始められる?

いえ、まだ!

一人ひとり席から立ち上がって、それぞれの調味料を小さじ一杯ずつバウルに入れていく。もう少し混ぜれば食べられるようになる。

私は日本に住んで以来、調味料はシンプルなものにしか頼ってなかった。醤油、みりん、日本酒という定番の味付けの生活になった。フライパンで簡単に炒め、フライパンから直接に食べる。タイでは、ナンプラー、タイ醤油、唐辛子、ニンニク、オイスターソースなど、私の味覚を圧倒する調味料に取って代わられる。

麺類がある日は、ドライチリ、唐辛子の酢漬け、砂糖とフィッシュソースの4つのメインだ 。この4つをガラス瓶に入れて、小さなチームのようにまとめる。日本の料理と異なり、こういう「不完全な」料理が出てくるのは面白いと思った。なぜなら、最終的な味はチェフではなく、食べる人が決めるものだからだ。 家族の味付けを観察してみると、父が砂糖をスプーン一杯追加で入れたり、母がピンクの海が真っ赤になるまでチリフレークを入れたりするのが見えてくる。

(左から)ドライチリ、唐辛子の酢漬け、砂糖、フィッシュソース

麺類だけでなく、卵焼きや焼き鳥などのシンプルな料理にも大事な役割がある。P’ソーンとP’エーは必ずその料理に合わせる調味料を持ってくるようにしている。言葉はいらなく、彼らは何に何が合うかを知って、あらかじめニンニクと唐辛子をみじん切りにしておく。たべ終わったら、調味料はキッチンにもどり、P’ソーンとP‘エーも自分のご飯にかける。

隔離の生活の中でも、調味料は何かしらのつながりを与えてくれる気がする。調味料は料理の味を決める中心的な役割を果たしてきたものでありながら、ある家の生活のリズムや文化などを表す証でもある。または、P’ソーンとP’エーの思いやりでも、仕事の様子でも、どちらにせよ家族とのコミュニ―ケションのメディアになると思う。一人暮らしを始めると忘れてしまう些細なことだ。

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Nuey Pitcha Suphantarida
exploring the power of place

2nd year student at Keio University, SFC. Thai-born. Currently in Japan