ちょうちょはどこだ

ハルの冒険

このはなしの主役はハル。ぼくが約2年前から関わっていたプロジェクトを仕切る団体の代表(つまりはぼくのかつての上司であるのだけれど)の一人息子だ。

ぼくがハルを初めて「知った」のは、彼がまだ“ママ”のお腹の中にいるときだった。初めて「会った」のはこの世に生まれてから二週間後のとき。余談だが、ぼくはそのとき生まれて初めて沐浴なるものをした。指の先まで緊張しながら、一方でその重みとぬくもりを冷静に感じながら、ゆっくりとお湯をかけたことをよく覚えている。ハルはこの7月に3歳になる。


去年のことだ。青空にいくばくかの雲が広がる秋の日、ぼくは山陰地方のとある小さなまちに来ていた。

そのまちには件のプロジェクトの関係で3か月に1度ほどのペースで足を運んでいたが、その場所を訪れるのは始めてだった。コンビニ(経営しているおばさんがつくっていると思われるお惣菜が並んでいる)に行くにも15分は車を走らせなければならず、車のほとんど通らない道路と点在する古びた家、そして少子化によって廃校になった小学校がある、そんな場所。つまりは、多くのひとが思い描く「ザ・過疎化する山陰地方」だった。

そのまちを訪れるときは、大抵寝不足になっていた。プロジェクトの「仕上げ」の作業を泊まり込みで、集中的に行うからだ。あの日も、寝不足だったように思う。

あのとき、ぼくの傍らには、小さな手を握られながら意気揚々と歩く、二歳になったハルがいた。沐浴をした2年前は、人間ではない、なにか別のイキモノのようであったハルは、“ママ”がプロジェクトについて会議をしている間もその溢れ出るエネルギーを持て余すほどの、やんちゃ坊主に成長していた。そんな瑞々しいエネルギーに惹かれ、疲れきっていたぼくが息抜きと癒やしを求めて子守りを買って出て、ふたりで外を散歩しているときのことだ。

一端の探検家のような背中を見せていたハル

「ちょうちょ、ちょうちょ」

片手をぼくに繋がれたまま、ハルがつぶやくように言った。

ちょうちょが飛んでいるのか。

ハルのことばをキッカケに少し注意を払ってあたりを見渡した。数週間前は豊かな緑の葉をつけていたであろう木々が少しずつ秋の装いを身にまとい始めていることに、今更、気付いた。

しかし、肝心のちょうちょは見当たらない。もうどこかに飛んでいってしまったのだろうか。

「ハル、ちょうちょさんはどこにいったんだろうね〜」

そんなことを話しかけていたちょうどその時、さっきよりも大きなハルの声が響いた。

「ちょうちょ!ちょうちょ!」

手を振りほどき、どこで覚えたのだろう、『指をさす』というワザを駆使して、懸命にぼくに伝えてくる。その小さな指のさきに視線を向けたが、やはりそこにもちょうちょはいなかった。代わりに目に入ったのは、夏の名残を感じる生ぬるい風に吹かれてひらひらと舞い落ちる、1枚の木の葉だった。とっさにハルを見た。

「ほらね、いたでしょ、お兄ちゃんよりも先に、ぼくが見つけたんだよ」

そう言わんばかりに、満面の笑みを浮かべたハルと目が合った。

視線を戻すと、“ちょうちょ”はすでに姿を消していた。


あのとき、ぼくはしばし返事に窮した。

“間違っている”ハルに対して「あれはちょうちょさんじゃないよ、はっぱだよ」と伝えるのは、余りに無粋な気がした。でも「ほんとだね、ちょうちょさんだね」ということも、なんだか憚られたのだ。ハルの“誤った”ことばは、なかなか消えない余韻をぼくに残した。なぜなのだろう、と考えていたとき、竹中郁の「もしも」という詩に出会った。

紹介したい。

もしも
もしも この地球の上に
こどもがいなかったら
おとなばかりで
としよりばかりで
おとなはみんなむっつりとなり
としよりはみんな泣き顔となり
地球はすっかり色をうしない
つまらぬ土くれとなるでしょう
こどもははとです
こどもはアコーデオンです
こどもは金のゆびわです
とびます 歌います 光ります
地球をたのしくにぎやかに
いきいきとさせて
こどもは
とびます 歌います 光ります
こどもがいなかったら
地球はつまらない土くれです

そうか、そういうことだったのか、となんとなく納得した。

あのとき、「つまらない土くれ」は、間違いなく、ハルによって彩りを添えられた。

参考文献

灰谷健次郎(2004)『子どもへの恋文』,大月書店