”見えないものを見ようとして”

Gaku Makino
exploring the power of place
5 min readAug 19, 2019

余白とは何か半年間、大学の研究会で考えてきた。現時点の自分の余白に対する考えをこの文章でまとめる。

日本では、余白=何か特別なものという印象が文化的に醸成されてきたと感じる。侘び寂び、和食、神社、日の丸の国旗、無印良品など日本らしいものを想像してみると、余白との相性がとても良く思える。デザイナーの原研哉さんが唱えるemptinessの概念を余白に繋げながら、これを考えると少しだけスッキリしてくる。これまで日本人は意図的にemptiness“空っぽ“を生み出してきた。そもそも、神社というのは、僕たちの身の回りにいるにも関わらず見ることができない、八百万の神々(『千と千尋と神隠し』的な)がふらふらっと入ってきて、その見えない神々と通じ合うための空間として作られた。だからこそ、あれほどにも簡素な社の内装になっているのだろう。また、現在の和室の原型とされている、銀閣など書院造の茶室は、棚と掛け軸以外の装飾品がほぼ何もない部屋として作られた。これは、お茶の最中にお茶を楽しむこと以外の余計な情報が目に入ってこないように、つまり、お茶への想像を最大限に巡らせられるような空間として、あえて空っぽのデザインになっているのだ。このように、日本人のemptiness”空っぽ“の概念は、今に始まったことではなく、何千年も前から文化的に受け継がれてきたことだと言える。神道のような土着の信仰対象から和室のような住居の作りにまで、生活のあらゆるポイントで日本人はemptinessと付き合ってきた。だからこそ、余白に希望や可能性を感じられる文化背景が育ってきたのだろう。

八百万の神が集いし屋代(Twitterより)

ここまでemptinessから余白について話してきた。けれども、この余白というものは概念的な話であり、もちろん目で見ることができない。では、どのように我々は余白の存在を認識するのか。一見ないように見えるスペースを、余白であると思えるのだろうか。見渡してみると、我々の世界にはぽっかりと空いたスペースが沢山ある。けれども、私たちがその全てのスペースに余白を感じることはない。

ここで、余白という字を見てみる。余るということは、何かがないと存在しない。算数なら割るものがないと余はでないし、商売なら売るものがなければ売れ残りは出ない。つまり、余白は字の如く、何かの存在なしには生まれないのだ。先述した例なら、神の存在を感じられなければ屋代はただの何もない家であり、お茶の想像を部屋中に巡らせようと思わなければ書院造りの部屋はもうちょっと華美になっていたかもしれない。我々は知らず知らずのうちに何かの存在を感じたり、信じたりしている。ただし、すべての人が神の存在やお茶の想像に考えを巡らせられるわけではない。そこには、その人の経験や感性が関係してくる。

半年間、余白を考えてきて分かったことは、余白の存在に気づけるかはその人の感受性により異なるということだった。この感受性は、その人が育ってきた文化的背景によることもあれば、身体的な特徴や心の状態が影響することもある。そのため、それは人によって異なる一方で、ある条件を共有できれば余白も同様に共有できる可能性がある。ここで、一つ例を挙げる。京都のある場所で、壁に鳥居の印が貼ってあるところがある。これは、もともと不法投棄が多い場所だったらしく、鳥居のシンボルが「ここは神聖な場所である」感じを彷彿とさせ、ゴミを捨てたくなくさせる狙いがあるらしい。これは、日本で神社にお参りをしたことがある人の間で共有される経験だろう。

壁についた鳥居 photo by Shelly

このように、現段階ではある特定の余白を感じることに対しての感受性がある人とない人が存在する。それは文化の違いや経験の違いからくるものが大きい。ただ将来的に考えると、この違いは科学技術の発展によって克服されていくかもしれない。つまり、ウェアラブルレンズのようなものであるスペースを見たときに、過去のスペースの使われ方が参照できるようになるとするならば、特定の人にしか感じられなかった余白は、誰にでも認識できるようになるはずだ。拡張現実と空間認識が発達した未来では、ジブリのような神々が見えるようになるかもしれない。けれども、それはそれで興醒めだ。個人の特徴と対象との関係性の中で成立するものを、僕は余白と呼びたい。見えないものが見えてしまうのではなく、見えないものを見ようとする行為あればこその余白であって欲しい。

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