「なに食べる?」

はしもとさやか
exploring the power of place
4 min readDec 10, 2017

食べるものを選ぶとき、人はどのように決断するのだろうか。例えば、初めて訪れるまちでお昼ごはんを食べるとする。近年では、インターネットや雑誌で情報を集め、事前に店を決めてから足を運ぶ人も多いだろう。しかし、現地を歩きながら、直感で選ぶことも多々あるはずだ。そんなとき、店先に掲げられた看板は重要な判断材料となる。

どのお店に入ろうか? @鎌倉

店名のロゴや料理の写真、値段や「本日のおすすめ」の説明…まちにあふれる多種多様な看板は、それぞれたくさんの情報を発している。私たちはそれらを受信して、入ったことのない場所・食べたことのないものに対しても、想像力を働かせながら店を選ぶのだ。時には自らの経験と照らし合わせ安心しながら、時には未知への期待と不安を抱きながら。

しかし、未踏の地の飲食店でなくても、私たちは常に食べるものを選んでいる。スーパーマーケットやコンビニに立ち並ぶ食品も、それぞれたくさんの情報を発している。人は看板を見て店を選ぶのと同様に、パッケージを見て食品を取捨選択する。ひとつひとつのそれは、言わばちいさな看板だ。

スーパーマーケット@湘南

すべての食品が、選ばれるため懸命に看板を掲げているのだ... そう思い至ってからスーパーマーケットを歩いてみると、情報量の多さに圧倒される。その饒舌さにくらくらしながらも、陳列棚をながめていく。すると、興味深いコーナーがあることに気づく。多くの人が日常的に使うので種類が豊富だが、規格が似ているためパッケージの違いが際立つもの。調味料だ。下に並んだケチャップ、マヨネーズ、味噌、あなたはどれを選ぶだろうか?

採集した食品の一部。多様な主張がある。どれにする?

「食べたことがあるから。」-もしかしたら、これが一番の選択理由かもしれない。パッケージを見れば味や記憶が蘇り、安心感を持ちながら手に取ることができる。あるいは、パッケージを見ず「安いものを選ぶ」と言う人もいるだろう。

しかし、食べたことがないものの場合や、値段に差がない場合はどうだろう。パッケージに描かれた言葉や写真、イラストや色からイメージをふくらませて、「なんだか良さそう」と判断するのではないか。ふだんは無意識に通りすぎる場面かもしれないが、よくよく考えれば多様な理由がありそうだ。パッケージそのものが可愛い。企業名を聞いたことがある。コマーシャルや広告で見たことがある。「塩分カット」や「カロリーオフ」の文字に心惹かれる。「期間限定」や「新登場」の誘惑に抗えない。表記された地名に何らかの関係がある、あるいは良い印象がある。農法や製法にこだわりがある。さらに、パッケージをくるりと返せば原材料も載っている。そこから味をイメージすることもできる。また、目から入る情報だけでなく、パッケージの触感や素材感も関わってくるだろう。

いずれにせよ重要なのは、私たちが食品と対峙するとき、知らず知らずのうちに想像力を駆使しているということだ。そして食べるものを選ぶときには、選ぶ人自身を取り巻くさまざまな事情が浮き彫りになる。それは、単に味の好みや食への意識だけの話ではない。思考や決断のクセ、メディアとの接触、人や土地との関係性、育った環境など、実に多くのことを知る手がかりになりうるのだ。

店内をぐるぐると歩きながら、そんなことを考えていた。日常にありふれた「食べるものを選ぶ」という行為が、尊いものに思えてくる。私は、人が買い物をしている姿を不思議な気持ちで見つめながら、スーパーマーケットを後にした。

ふだん何気なく選ぶ飲食店、それとなく手に取る食品たち ... 。ふとそれらを見つめれば、隠れた自分に気づくかもしれない。「何となく」にも、きっと理由がある。日々選び取る看板、あるいはちいさな看板は、あなた自身を映す鏡でもあるのだ。

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