まほう

Michino Hirukawa
exploring the power of place
4 min readJul 19, 2019

私は、日本語を話す。この日本という国で、日本語を母語とする両親のもとで育ったから、自然とこういう言語を使えるようになった。日本語については、読むことも聞くことも話すことも、全く不自由ない。生まれてきたとき、母語に日本語を選びたくて選んだわけではない。人や場所も選べる余地はなく、偶然にも生を受けたひとりの人間だ。それだけだ。

0歳や1歳といった幼少期、どのような言葉や振る舞いで、両親や周りの人たちとコミュニケーションをとっていたかは覚えていない。はたまた幼稚園にあがって友達ができはじめたときも。手がかりになるのは、数年に1度くらいの頻度で両親が見せてくるホームビデオに登場する、じぶんの姿。「あー、うー、ママー」と、言葉にはほど遠い音を発しながら、よちよち歩いている。母の方へタッタッタと走り出したと思えば、ときどき転んで、すぐに泣き出す。きっと、どちらかといえば体当たり的に周りの人たちへ何かを伝えようとしていたのかもしれない。

幼い頃のじぶんの話し言葉を覚えていないながらも、コミュニケーションに関して明言できることがある。それは、小学生の頃に日本語以外の言語に出会ったことだ。唯一の習いごとで、近所にある英語の教室に放り込まれた。訳もわからず、耳から聞こえてくるのは「エー、ビー、シー、ディー」という、謎めいた音だった。ただ、このような言葉のようなものを口から発していれば、誰かに何かを受け取ってもらえる感覚は徐々に身体が覚えていった。小学1年生の頃から習いはじめた英語は、結局高校生を卒業するまで何らかの形で勉強し続けることになった。

10年以上も、同じものを継続できたことは、どこか意識的・無意識的に面白さを感じていたからだろう。英語を話したり聞いたり読んだり、何となく「使える」ようになってきた高校生のとき、ある感覚がじぶんのなかで目覚めた。それは、日本語以外の言語でコミュニケーションを取ろうとするとき、じぶんの脳が全く違う使い方をしていることだ。世界を認識しようとする、察知する力がどこか異なる方を向いている。声のトーンを微妙に調整したり、ジェスチャーを添えるようになったり、まるで別人を演じている気分だった。というより、じぶんの新しい一面を見つけたようだった。

とくに日本を出て海外へ行くと、もろに身体が反応する。高校生のときはアメリカへ長期留学する機会も得られて、英語を主とした生活がはじまった。目つきや髪色が違う人たちの会話や派手な看板を好むまちの景色、聴覚も視覚も集中させなければならない。ここは一体何屋さんなのか、この食品は一体何なのか。テレビを点けても、一語一句の情報よりも映像が頼りとなった。ふとレストランで昼食を取ろうとしても、メニューの理解からはじまる。わかること、わからないことが四六時中頭のなかで交差する毎日だ。

ひとときの油断が許されない、窮屈な時間に聞こえるかもしれないが、実際はそうでもなかった。レストランの例でも、勘で注文したものが思いもよらず美味しい料理で少々得した気分になった。コメディー番組を観ていても、細かなジョークが理解できず面白くないではなく、出演者の面や格好やジェスチャーという視覚的な情報で十分笑えた。アメリカ人の友人に、内容がうまく聞きとれなかったから教えてほしいと伝えると、快く会話がはじまる場面はたくさんあった。「わからない」「できない」じぶんを受け入れると、偶然の出会い、思わぬ面白さ、他者とつながる喜びを意外と体験できた。

日本の都会を歩いていると、酔う感覚に襲われるときがある。引っ切り無しに聞こえてくる日本語は耳から理解され、煌びやかなネオンサインはどこで何をすべきか一目瞭然。あまりに多くの情報が溢れすぎていて、視覚と聴覚は疲れてしまう。だから私の場合、他の言語が好きなのかもしれない。なぜなら、すべてを「わからない」と表明できる状態でいられるからだ。じぶんが持っている世界の認識力に「余白」をつくることは、むしろ外を知ろうと身体に働きかけ、案外気楽に学びを続けさせてくれる。私の知らない世界や新しいじぶんの一面、そんな思いがけない出会いを受け入れて、発見する喜びを吟味できる。不思議な、まほうだ。

わかる、わからない、わかる、わからない...

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