やくわり

Mariko Yasuura
exploring the power of place
4 min readMay 10, 2017

わたしたちはあたりまえということをどれだけ認識して生活できているのだろうか。

わたしは高校3年生のとき、受験に邪魔になるからと思って、脱スマホを心がけていた。外に出かけているときは入れていたけれど、学校にいるときはもちろんのこと、自宅でも基本的に電源を入れない状態を保ち、自分スマホを使いたいと思ったときだけ電源を入れて使っていた。当時から流行っていて、以前わたしも利用していたInstagramやTwitterのアプリは自らアンインストールした。特にこの二つは、学校の友人たちも利用していたので、ひょんなことからトラブルになることがとても多かった。Twitterのフォロー外されただとか、Instagramに自分の元恋人との写真を投稿していただとか。SNSなんてトラブルの種でしかないと当時のわたしは強く感じていた。

当時のわたしにとって「モノ」というものへの情や愛着はあまりなかった。モノに左右される人ってなんだか自分を持っていない人みたい、とさえ考えていた。この考えは当時のわたしにとってあたりまえの考え方だった。モノに執着しない生活は心が豊かになると思っていたし、なぜ学校の友達はこのことに気づかないのだろうとずっと感じていた。

年月を経て、現在のわたしはInstagramもTwitterもどちらも利用している。高校生のときのわたしが見たらなんと言うかわからないが、毎日二つのSNSをチェックしている。この二つには、フォローしている相手の趣味趣向がわかったり、自分からアクセスしないと得られない情報が勝手に流れてきたりする。この利点に気づいたのはごく最近だ。いま振り返ると、高校生のときああやってモノからの離脱をして、一種のコミュニケーションからの離脱をしていたときは、めったにトラブルに巻き込まれることもなく毎日穏便に生活できていた。言い換えれば変化や気づきに乏しい生活だった。友人たちの発信にも気づかないし、情報に敏感になっていなかった。

高校時代のわたし(左)と友人

そんなことを考えながらわたしは今日もシャワーを浴びる。なんだかぼんやりした気持ち抱きながらシャワーを浴びて、シャワーから浴びた時にはどこかからか「はあスッキリした」と、なんとなく気持ちに整理をつけられた自分を見出すことができる。悶々とした気持ちを日々抱えながら、シャワーでリセットする。特に、わたしのシャワーはこれの繰り返しである。このリセットの役割を無意識のうちにシャワーに委ねているひとはおそらくわたしだけではないだろう。

この役割をシャワーに見出すことができるようになったのは、シャワーが贅沢品ではなくなり、西洋文化を取り入れた日本人にとってシャワーが日常的な道具として使われるようになってからのことだ。毎日それを利用できるようになってから、わたしたちはシャワーに時間の短縮や効率の良さを求めるようになった。さらに1980年後半になると、ライフスタイルの多様化から、女性の朝シャン(朝にシャンプーするの略)というのが流行し、シャワーに対して美意識などさまざまな役割を見出そうとしてきた。このようにシャワーの役割は時代によって変化してきている。

発明された当時、「高級品」だとか、使うことが「贅沢」だとか認識されていたときの道具はただその存在自体が一種の「華やかさ」を持っていた。しかしそれが人々に普及され、高級感を失うと、わたしたちは自分にとってちょうど良い役割を見出そうとする。

道具への意味づけというは、人の自分勝手さみないなものがあるのではないだろうか。上記のSNSの習慣のように、自分たちの習慣は、意識的なものから、無意識的なものへと変化して、いつかはその習慣に対して疑いの気持ちを抱かなくなる。しかしその習慣を選択しているとき、人は何かを得て同時に何かを失う。このことをもっと丁寧に、敏感に感じ取ることができたら、わたしはもっと多くの何かを得られる気がする。

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