やりくり

Ayako Moribe
exploring the power of place
4 min readSep 19, 2019

私は、旅が好きである。

何度も同じ場所へ行くことも好きだし、初めての場所を訪れるのも好きだ。そんな私が旅の始まりを感じる瞬間のひとつに〈荷づくり〉がある。シチュエーションを想像しては、何が必要か、自分がそこで何を持っていたいか、何を着ていたいかなどと、あれこれ想像するのがなんとも楽しいひとときである。最近は、昔に比べたらずいぶん身軽になったと自覚しているものの、荷づくりはいつでも上手になりたいと思い続けている。小さなかばんやスーツケース、あるいは両手の空くバックパックで出かける方が、旅慣れしているように見える気がしている。私は、身軽な旅人の姿に憧れては、どうしたらあのようになれるかと考える。最低限の荷物と思いつつも、結局さまざまなものをつめたくなって、かばんを窮屈にしてしまいがちなのである。

そんな私の救世主となったのが、圧縮袋だ。圧縮袋があれば、どんなものでもシューッと荷物を小さくできる。荷物が小さければ、かばんだって小さくていい。圧縮袋の中に洋服をつめこんで、口を閉じて、空気を抜けば、もう私の荷づくりは終わったと言ってもいいくらいだ。洋服を小さくたたみ、すき間をできるだけなくすように入れ、袋のなかの厚みはなるべく均等にさせておきたい。私はそんなちっぽけなこだわりと、小さなかばんを持って旅に出るのだった。

圧縮袋に洋服をつめ、空気を抜いたあと

小さなかばんにも十分収まる大きさにまで、自分の体重をかけながら荷物を圧縮する。丸めたり、正座して上から乗ったりと、私はいつしか必死になっている。そのかいあってか、あたかも持ち物が少なくなったかと勘違いしそうなほどに圧縮されていく。空気が抜けきったあとの圧縮袋は、柔軟性がなくなり、袋の外側で他のものと接したさいも、形を変えることが難しいくらいのかたまりになる。洋服からはふんわりとした空気を含んだ柔らかさを奪い、時にはシワを作ってしまうほどに、洋服同士を密着させる。そんな状態になりながら圧縮袋の外へと空気が押し出されていく動きは、まるで極限まで袋内部のすき間を取り除き、かばんに余地を明け渡す動きのように思えてくる。そうして、私は半ば強引になりつつ、限られたかばんの空間をやりくりし、荷物をつめこんで旅支度を整えていくのだった。

〈つめる〉という作業は、限られたスペースにものを配置していく作業だ。また、空いた席を〈つめる〉というように、人やものを動かすことで、余地を移動させる動きでもある。私たちはお弁当箱にきっちりおかずをつめていったり、冷蔵庫の中身を移動させながら、買ってきたものを新たに入れたり、予定をつめこんで、できるだけたくさんの人に会うために出かけたりする。もし時間や空間に限りがなく、自分以外のものや人の動きもなければ、余地について考えることもないのかもしれない。限りがあるからこそ、私たちはあとどれほど余裕があるのかを認識したくなるのではないだろうか。

私が理想とする旅のかばんは、小さいことに加えて、少しの余裕を残してある状態だ。なぜなら新たにおみやげが加わることもあるし、服をきれいにたたむのが面倒くさくなり、圧縮袋にとりあえずつめるだけつめて、〈均等な厚み〉といった意識なんてきれいさっぱり忘れ去られていることがほとんどだからだ。たいてい帰りの方が、行きよりも荷物が多く、大きくなってしまう。こうした状況も見越して、帰り支度を受け入れられるくらいの余裕を、旅の始まりには残しておきたい。そうやって自由につめたり残したりできるからこそ、余裕と呼べるのだと思う。少し先の未来を思って、どこに〈余〉を持たせておくのかを自ら選択する。

荷解きをすると、かばんはまた次の旅の荷物を受け入れるための空間を取り戻していく。空っぽのかばんこそ、これから何にでも置きかわる可能性だらけの余白で満たされている。余白と引き換えに何をつめこんでもいい。だからこそ、荷づくりは楽しい。

しかしながら、〈余〉はありすぎてもしっくりこない。
私は、小さなかばんを持って旅に出たい。

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