ゆれうごく自分

Mariko Yasuura
exploring the power of place
4 min readJul 9, 2018

私はほんの数年まで、人一倍物事の白黒をはっきりさせたい人間だった。何を決めるにも比較的即決型で、思い返せば、受験したい大学も中学校2年生のときには決まっていたし、食事をとるために飲食店に入ったときも、食べたいメニューはすぐに決まった。あれこれ悩む時間をもったいなく感じてしまって、その悩む時間をどうにか短縮し、短縮してできた時間を使ってなにか別のことを考えたいと常日頃から思う傾向があった。

この考え方は、大学生になってもなお続いた。自分にとって無駄だと思うことはできないし、しない立場をとっていた。それはきっと、より能率的な選択ができる自分の姿を、自分のなかの理想像としていて、時間をかけずに要領よく物事をこなすことが自分のなかで絶対的に評価の高いやり方だったからだ。さらに言えばそんな風にこなす自分がどこかかっこいいとさえ思っていた。

そのような考え方をもちながらも、大学3年にあがる頃の私は新しいゼミに所属することを選んだ。そしてそのゼミに入れるかどうかが決まる面談で、そのゼミの教授に、「ヤスウラさんって真面目だよね。」と言われたことを今でも鮮明に覚えている。続けて「真面目さゆえに、自分と異なる意見に対してはその全てを最後まで理解できないと気が済まないタイプだよね。」とも言われた。はじめ、その言葉がもつ意味を私はあまり深く理解していなかった。その言葉を、それ以上にもそれ以下にも受け止めることができていなかったのだ。

きっと当時の私は、何かにつけて白黒を明確にしたい人間だったから、その中間にあるグレーの部分を受け入れる余地が自分の中になかったのかもしれない。そのグレーの部分を白か黒のどちらかに区別することでしか自分を納得させることができなかったのだ。

変わりつつある自分

無駄なことをせずになんでも即決していたあのころの自分は、何かを決断するときに、決められずにゆらゆらとゆらいでしまうことは、意志の弱さの現れだと思っていた。時としてそういう場合もあるのかもしれないが、当時の私はそう信じて疑わなかった。揺れ動く自分の気持ちに対して、正直になることがきっと怖かったのだ。いろんな感情や選択肢の間で揺れ動いて、どこにも定まることができない私なんか、どうせどこにも行けないと思っていたのかもしれない。そう思うくらい、きっと自分に自信がなかったのだろう。

けれど、今はそうやって揺れることが悪いことではないと思い始めている。

そう思い始めたことに、決定的な出来事があったわけではないが、20数年生きていれば様々な出来事が自分の周りで起こる。出会う人も、会わなくなってしまう人の数も種類も増えてゆく。そういう二度と訪れない経験を何度も繰り返すうちに、自分自身が言葉にならないたくさんの感情を抱いていることに、今の私は気がつくことができている。少し前の私は、それに気がつくことのできる敏感さと大きな器を持ち合わせていなかったのだろう。自分のなかで白黒つけられずに、その白と黒を行ったり来たりしている自分を受け止めるだけの余裕がきっとなかったのだ。

今の自分は、そんな風にゆらゆらゆらぎながらも、時間をかけて出した判断や決断は、自分のなかで意味のあるものになっていくことを体感として知っている。それに、例えば白黒の白しか認めずに、その一つの感情しか感じ取ることができなかったら、黒を選択し、その他の感情を抱く人々の気持ちを理解することはできない。簡単な言葉でいえば、多様性に対して寛容になることはできないということだ。

いろんな感情や選択肢の間でゆらゆらと揺れ動く自分を認め、それを素直に受け入れることで、自分だけでなく自分以外の人々のことを理解するきっかけをつかむことができるかもしれない。または自分の本当にやりたいことや望んでいることを語る声に時間をかけて耳を傾けることができるかもしれない。

ゆらゆらとゆれうごくことはきっと悪くない。

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