わたしたちの季節会

私たちは、高校三年生の時に同じクラスだった。
あれは忘れもしない5月、身体測定をしていた時のこと。自分の順番が終われば教室で自由に過ごして良いという時間の中で、近くで話していたことがきっかけとなり、「みなとみらいが好き」という共通点を見つけた。私たちはそこから徐々に話すようになっていった。常に一緒に教室を移動したり、昼食を食べたりしていたわけではない。話したいと思った時に話し、時間を過ごすだけだったけれど、他の人には言えなかったこともなぜだか彼女には話せた。

さらに仲が深まったのは、その年の11月ごろ。体育の授業中に、突然学校をサボって横浜に行くことを思いつき、その数週間後に本当に実行した。朝、馬車道のベンチに座って、時間差で先生に連絡をした時のことは、その時の緊張と高揚感とともに今でもはっきり思い出せる。人気のないみなとみらいを、朝から夕方まで制服でわけもなくただおしゃべりしながら散歩した。私たちにとってこうして授業をサボることはおおごとで、ちょっとした冒険だった。彼女とそんな気持ちを共有したこと、また、教室という場所を出ても自然体でいられるということがわかり、一段と気を許せるようになった。

この日の景色はいつまでも色褪せない

「季節に一度くらい会おうよ」

高校最後の春休みのある日、授業をサボった日と同じようにみなとみらいを歩いていたときのこと。どちらが提案したのか今となっては全く思い出せないものの、すごくいいアイデアだと盛り上がった。それでも高校生の約束なんて儚いものだとなんとなく気づいていたから、実際のところ本当に続くかどうかに関しては気にしていなかった。正直に言うと、他の高校時代の友人たちと同じように徐々に会わなくなっていくのかなと思っていた。しかし私の予想に反し、この季節会は大学に入ってから今まで約4年間、ずっと続いている。

季節会の開催について、決まっていることは何もない。どちらからともなく連絡をし、そこから日程と場所を決めて会うというだけのこと。つい先日、「冬会」が開催された。みなとみらいで食事をし、散歩し買い物をして、その間ずっと喋っていた。近況報告から始まり、二人でそれぞれの大学4年間を振り返ってみたり、買い物をしながら近い将来について話したり。初めて話すことだけではなく、サボった日の話や昔好きだった人の話も、毎回同じように繰り返す。

季節会が提案された当時、それが会う頻度として多いのか少ないのかはよくわかっていなかった。でも今思い返せば、「季節に一度」というペースは私たちにぴったり合っていたのだろう。ある程度忙しくて、ある程度それぞれの生活が充実している私たちが交差するのに、ちょうどいい期間。大学に入ってから、それまでとは比べ物にならないほどの様々な経験をし、その都度様々な感情を抱いた。新しいことを学ぶ喜びも感じた一方、毎日何かに急かされているような焦りや不安も感じ、すべてが順調に進んだわけではなかった。それでも、彼女との季節会は毎回淡々とやってくる。決して単調ではない、波のある大学生活の中で、私のペースを整えてくれていたのがこの季節会だったのかもしれない。私の事情とは関係なく季節は変わる。季節が変われば、自然と彼女のことを思い出すのだ。「あ、そろそろだ」と。

帰り道、彼女に「これから季節会できるかな」と聞かれた。
ああそうか。私たちは大学を卒業して、社会人になるんだ。そうすれば、季節に一度なんて余裕はなくなるかもしれない。年4回が年2回になり、さらに少なくなっていって、いつか全く会わなくなってしまうかもしれない。

でもきっと、私は季節が変わるたびに彼女のことを思い出すだろう。季節という身体的な感覚ととともに関係性を築いてきた私たちは、たとえこれから長い間会わなくなったとしても、互いを思い出すことで、常に「会う準備ができている状態」になっているのではないか。季節会じゃなくたっていい。会う準備ができていることが大事なんだ。そう、また新しいペースを見つけていけばいいだけのこと。

そう思えば、彼女と別れてから一人帰る電車の中で、少し寂しさが紛れた。

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