アートはいけず?

家洞リサ
exploring the power of place
4 min readFeb 19, 2017

みなとみらいに、白くて大きなコの字型のオブジェがある。「いけずなまち」プロジェクトで研究室の仲間と「イケズカタログ」を作ったわたしは密かに、「アート」は「いけず」なのかそうでないのか、という問題にぶつかっていた。街を歩いていて、鏡張りの柱や建物の装飾の一部としてのポールなど、路上には「理解するのがむずかしい」さまざまなモノが存在するということを知った。まちには私たちの暮らしをさえぎる「いじわる」なモノコトが偏在していて、作り手が良しとしていても、使い手にとっては「ヘンナモノ」として理解されるモノがたくさん存在した。それらはたいてい抽象度が高く不可解であり、もはや芸術作品なのではないかとさえ思えた。とはいえ、「アート」はそうした「ヘンナモノ」とは別格の存在にも思える。「アート」をどう理解すればいいのか、その問題を考える上で象徴的だったのが、このオブジェだった。

JR桜木町駅の北改札を出て横浜方面に3分ほど歩くと、日石横浜ビル1階の味気ない屋外広場に、巨大な大理石がぽつり、と座っている。一度見たら忘れないような不思議な物体だけれど、その前を日々、人や車が通り過ぎてほとんど見向きされないのが残念だ。ベンチとも作品ともわからない「ヘンナモノ」として、人びとは避けるのだろうか。それとも、ひとりで座るのはためらわれるのだろうか。なんとなく作品らしいとは思っても、これを説明するものは見つからない。こういうところはなんとも「いけず」だけれど、すこし調べてみると、一般社団法人横浜みなとみらい21が主体となって設置した、安田侃の〈天泉〉という作品だとわかった。

いつものように通り過ぎた2016年11月15日(木)18時19分。フィールドワーク中に、はじめて、人びとに溶けこんでいる〈天泉〉を見た。4人の女子高校生が、座り込んで、何やらおしゃべりをしていたのだ!気になってよく見てみると、実は女子高生4人のうち1番奥の1人はほぼ座れておらず、ほかの3人も、なんとかして乗っかっている状態だった。下辺の座面はカーブしてしているので、座るというよりは、寄りかかる体勢になる必要がありそうだ。気になってわたしも座ってみたが、大人2人だとかなりせまい。それにしても、ひんやりすべすべとした大理石が気持ちよかった。「コ」の上辺が下辺よりすこしだけ長くなっているので、中に入ると上辺が視界をうまくさえぎって、つい落ち着いてしまう空間を生み出していた。ちょうど秘密基地の中にいる感覚と似ている。あるいは、子どもの頃遊んだ遊具のような。なるほど、上辺と下辺のあいだがせまい上に座面はカーブしているのでちゃんと座ることは出来ないけれど、何人もの人がさまざまな体勢で寄りかかることのできるこのカーブには可能性がありそうだ。〈天泉〉を孤独な存在だと思っていた時には、どうして設置されたのか理解するのが難しかったけれど、女子高生たちを見て座ってみたら、自分なりにこの作品を理解できるようになった。安田侃は、この作品によって天のような安らぐ場所、つまり人びとのよりどころを作ろうとしたのではないだろうか。

私たちはたいてい、美術館のなかで「アート」を鑑賞する。具体的なものが描かれていれば理解しやすくても、抽象的であればあるほど、それ以上考えるのが億劫になり「ヘンナモノ」として認識してしまいがちだ。その認識が、心を作品から遠ざけてしまう。あるいは、有名な作品には立ち止まり、そうでなければさっと通り過ぎてしまうことがある。私たちは、自分にとって不都合なことや不可解なことをできるだけ排除しながら、かしこく生きているのかもしれないけれど、本当にそれでいいのだろうか。街角の柱やポールと同様に〈天泉〉も、ある人にとっては「いけず」であり、ある人にとってはよりどころになる存在だ。思えば、早合点したり、考えるのをやめたりしないで、ちょっと立ち止まって考えることからコミュニケーションがはじまる。私は、「アート」という言葉に振り回されていたようだ。

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