オババ様と私

「また、オババ様の家行くから話聞かせてね。」それが電話を切る前の私の決まり文句。 “オババ様”は母方の祖母の愛称で、祖父のことも“オジジ様”と呼んでいる。でも、この呼び方にこだわっているわけではなくて、じい様・ばあ様、オジジ・オババ、ジジ・ババ、と様々な呼び方がある。逆に私も桜子様、桜子、アンタと呼ばれている。祖母と孫という関係性は変わらず、友達になることなんてない。でも、日がくれるまで放課後を一緒に過ごしているような関係の私たち。

まだ21年しか生きていないが、私の人生を振り返るとどんなときにも色々な姿でオババ様がいた。中でも印象的なのは、幼稚園生のときだ。オババ様の家に遊びに行くと、いつも一緒にオババ様と絵を描いていた。彼女は油絵や水彩画を描くことが好きで、描いた絵が玄関に飾ってある。「置いてあるものをよく見て、紙にめいっぱい大きく描くと良いわよ。」と言われて描いたブドウとシジミは決して上手ではないけど、今でも思い出せるほど堂々していたと思う。また、彼女は1人海外旅行も好きで、中国に行ったかと思えば帰ってきてすぐエジプトやイラン、インドと様々なところへ飛び立っていた。いつも海外から現地のポストカードで手紙を送ってくれて私も一緒に旅行した気分にさせてくれる。大抵文章の最後は詰まっていて、もっと書きたいことがあったのだろうなと思いクスっと笑ってしまう。だから帰国したあとは小さなデジカメを覗きながらお土産話を聞くのが定番。特にエジプトの市場で、日本のダイソーで買った招き猫の貯金箱と富士山のポストカードで、ルビー2つと交換してもらえた話が気に入っている。

そんな日々が、ちょうど1年前に確認された新型コロナ感染症によって壊された。予定していた旅行はもちろん全てキャンセルになった。オババ様自身も高齢者であるため、感染リスクを考えて国内の近場ですら旅行できず、自宅での生活を余儀なくされていた。こんなに家にいる老後生活は今までなかった上に、生きがいが奪われてどうすれば良いのか分からなかったのだろう。会えない分オババ様から電話がかかってくる機会が増えて、電話をとるたびに彼女の声が弱々しくなっていった。なんとか電話以外で励ましたくても会いに行くにはリスクがあってもどかしかった。今までやりとりしていた手紙も、外出して投函するまでになんとなく感染リスクがある気がして避けていた。

緊急事態宣言があけると徐々に外出できる機会が増えて、私の日常生活を電話で話しているうちにオババ様の声の明るさが戻ってきた。今までの生活に少しでも近づけたくて、日常や六大学野球の応援の写真をプリントし手紙を添えて送った。私とのやりとりが生きがいになってくれたらと思った。時間にゆとりができたこともあり、母の長年夢だった保護猫を引き取った。「新しくおてんばの妹ができたんだよ。」とそのことをオババ様に報告すると、大の猫嫌いなので激怒していたが1ヶ月後には私の家に遊びに来てくれた。久々に対面して元気は有り余っていても少し小さくなった彼女を見て寂しい気持ちになり、時間は有限ではないことを実感した。それでも彼女の趣味の野菜栽培で起きた話や、今まで描いた絵を寄付することにしたとニコニコしながら話してくれて、変化を楽しむオババ様に安心し、むしろ私が元気付けられた。私も今までの分を取り返すかのように、久々に喉が乾燥するほど話した。その日は「もう疲れました笑」というオババ様の一言で解散になった。

届いた猫のポストカード

それから2ヶ月ほど電話でのやりとりをしていたが、1週間前にオババ様から私宛てに手紙が届いた。ちょうど色々なことが重なり、気が滅入っているときだった。手紙は大の猫嫌いのはずなのに猫のポストカードで目を疑った。相変わらず後半は文章が詰まっていたが「人生楽しい事悲しい事 山あり谷ありです おばばの年迄いくつ乗り越えて行かなければなりません 自分に正直に真面目に生きる事が大事 まだ〃いい事が一杯待っているから元気に頑張って下さい」という部分を読んで、ああ敵わないな、と感じた。私がいくらオババ様を励ましたくても、いつも彼女は私を見透かして力になってくれる。私の人生はオババ様がたくさんいたが、オババ様の人生に私は1/4くらいしかいないだろう。それでも、この21年分を返せるぐらい、オババ様といたいと思う。

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