コインランドリー

イワサキハナエ
exploring the power of place
4 min readSep 19, 2020

毎日23時、私は自転車に乗ってうちを出る。行き先は家から2分のコインランドリーだ。普段洗濯は母がやってくれていたが、1ヶ月ほど前に家の洗濯機が壊れてから、私が毎晩コインランドリーに通うようになった。気持ちのいい夜風に包まれる道のりは、深夜の散歩のように、いつもの景色が少し特別な冒険のように思えてくる。無機質に輝く白い光が見えたら、そこが目的地だ。店内に入ると、壊れそうなくらい大きな音を出して回る洗濯機と、海辺の街をイメージしたような愉快でゆったりとしたBGMが聞こえてくる。

他のお客さんが部屋着で出入りするのを眺めながら本を読むのが、私のコインランドリースタイル。ひとりで来る人のほとんどは洗濯物を入れたらすぐ店を後にし、終わった頃に取りに来るなど店内で居座ることはないが、カップルや家族など数人で来ている場合は飲み物を片手におしゃべりをしている人が多い。私のように、ひとりで洗濯が終わるのを待っている人は少数派だ。だからこそ、同じようにひとりで過ごしている人を見ると勝手に心を通わせてしまう。

ある日は、途中で入ってきた、私の母と同い年くらいの女性と一緒に洗濯が終わるのを待っていた。二人とも近くのセブンのカフェラテを手に、私は本を読み、その人はスマホで動画を見ていた。お互いの存在を少し気にしながらも、それぞれの時間を過ごす。私とその人が言葉を交わすことはない。

私は基本的にひとりでいることが苦手だ。何をしていても落ち着けず、心の奥底で常にソワソワしてしまう。それはきっと、自分ひとりではここにいていい理由が見つけられそうにないから。それに対して、誰かと一緒にいることができればその人の話し相手として存在できるから安心だ。良くないことだとは思いつつ、自分のことを好きだと言ってくれる誰かといることでしか、自分の存在を許すことができていない。最近は「ご自愛」という言葉が消費のトレンドになりつつあり私も何かと使っているが、実際は雲の上の概念だ。

そんな私にとって、一人でも許された気持ちになれるのがコインランドリーだった。コインランドリーには「洗濯する」という単純明快な目的とゴールがある。洗濯だけなら30分、洗濯と乾燥なら1時間。スタートボタンを押した瞬間から、赤い数字でカウントダウンが刻まれる。終わるのを待っている間は、ひとりだとしても一家四人の「衣」を背負った人として存在できる。その安心感があるからこそ、カフェラテのカップについた水滴が次第に水たまりを作っていくのを横目に見ながら、何も気にせず本を読むことができる。

洗濯物を洗濯機に入れるという行為は同じなのに、家で洗濯を任せられた時はこんな安心感は得られなかった。家での洗濯は「家事」だが、コインランドリーでの洗濯は「家事」とは呼べない気がする。違いは「うち」か「そと」かということだ。コインランドリーでの時間は、普段ならば家事という一連の流れの中で行う洗濯を、一つの出来事として外の世界に切り取っている。洗濯という行為を切り取ることで、洗濯にかかる時間も「待っている時間」として浮かび上がってくる。本来ならば、家事は衣食住という生活に直結する欠かせない行為だ。しかし、一連の流れとして常態化してしまうことで、欠かすことはないのに、欠かせないことをしているという意識は無くなってしまうのかもしれない。

ふと、一緒に洗濯が終わるのを待っていた女性に思いを馳せた。あの人は年季の入った子供乗せ自転車で来ていた。あの人にとって、ひとりでコインランドリーで過ごす時間はどんな時間なのだろう。どんな気持ちで動画を見ていたのだろう。あの時私たちは、たまたま同じ時間を過ごしただけの他人だった。だけどどこまでも「私たち」だったように思う。

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