コンタクトレンズなしで見る世界は意外と心地が良い

Shelly
exploring the power of place
Dec 19, 2020

私のコンタクトレンズの度数は右が−1.75、左−2.75。付けなくても、少しぼやけて見えるくらいなので、特に危ないこともない。
私はこのすこしぼやけた世界にいるのが居心地良いなと感じる。その理由を自分なりに考えてみた。

「他のヒトやモノとの距離を感じない」

ぼやけた世界では、自ら近づかない限りヒトもモノもはっきり見えることはない。自分から半径2メートル以上先の人がどんな表情しているのかどこに視線を送っているのか、モノにんどんな特徴があるのかがわからない。ヒトやモノが溢れていて、近い距離に存在する社会での生活では、正常な視力で生活していると、いろいろな情報が勝手に入ってきて疲れてしまう。ぼやけた世界では、ヒトもモノも良い具合にぼやけていて、それらと自分の距離が近いとも遠いとも感じない。自分が見たいと思う対象にだけ、自ら近づけばしっかり見ることができる。つまり、ぼやけた世界は、他のヒトやモノとの距離をコントロールできる世界なのである。
私は、誰かの近くにいるより、一人でいることが好きなので、距離をコントロールできる世界が心地よいのだろう。

思えば、今までの人生で私は、近くにいる人の数を限定したり、人との距離を遠くしたりするような行動を取ることが多かった気がする。
まず、遊ぶ時の人数。5人以上よりも、2–3人くらいで個人と密接に関わって遊ぶのが好きだった。もし、5人以上で遊ぶとなっても、一番仲が良い子と話しながら一番後ろを歩くことが多かった。
一番後ろを歩いていると言えば、林間学校や遠足での移動列を思い出す。自由に並んで良いとき、よく最後尾にいることが多かった。最後尾にいる人たちとお喋りをしながら、微妙に列から遅れを取り、のんびりと歩くのが好きだった。
また、「一人〇〇」も好きだ。特に高校生の頃は、よく一人で映画を見に行った。夕方頃に、突然映画行きを決めて、ササッと観に行って帰ってくる手軽さが良い。映画を見終わったあと、一人でジーンとしながら映画の世界に入り浸るのも良い。

こういった私の特性は、大学生になって一層強くなったなと感じる。大学はクラスもないし、中高の部活のように、「みんなが何かしらのコミュニティに入っている」と感じる場面が少ないからであろう。だからなのか、結局大学のサークルにも入らなかった。ちょこちょこインターンやNPOなど外部で活動することはあったので、そこでの友人と個人的かつ継続的に出かけたりはしている。
あとは、SFC(湘南にある大学のキャンパス)の人が多すぎないキャンパスが、私の特性を加速させたと思う。入学当初からSFCの中で一番好きな場所である、この場所(写真参照)。謎の囲いがあるおかけで、誰かの視線を感じることが一切ない。私から見えるものも鴨池だけで、人が視界に入ることは無い。特に春や秋の心地よい天気の中、ドラマや映画など自分の好きなものを見たり、ボケーっとしながらランチを食べるのがとても良かった。

入学当初からSFCの中で一番好きな場所

1年生の春休みには、スキー場が目の間にあるペントハウスで、一人で泊まり込みのバイトをしに行った。仕事が休みの時間に、スノーボード三昧になることが目的だった。一人で黙々と滑ったり、たまにインストラクターをつけて指導してもらったり、ペントハウスの宿泊客と滑ったり、自由気ままに自分の思う存分スノーボードを楽しめた。

今年のステイホームを経て改めて、「人との距離が遠いのがデフォルト」の方が私にとっては居心地良いのだと気づくことができた。自分から意思を持たない限り、誰かと距離を詰めることのないステイホームでのオンライン生活に、私が苦を感じることは全くなかった。
また、今までは、人と距離を取りがちな私を心配する人がいて、自分でも「もっと人と関わった方がいいのかもしれない…」と自分のことを心配することもあった。しかし今は、オンライン生活がイレギュラーではなくなってくるであろこれからの時代、私に合う時代がやってきた。
なので、素直に「不便じゃ無い程度に物が揃う地方都市の郊外で、犬二匹とともにリモートワークで生計をたてながら、生活する」という夢に向かうことにする。

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