ゴールが見えても

Mariko Yasuura
exploring the power of place
4 min readJan 10, 2018

わたしには忘れられない出来事がある。

わたしは小さい頃から絵を描くことが好きだった。中高6年間は美術部に所属して、部活では絵を描かずに彫塑という立体の作品をずっと造り続けていたけれど、修学旅行の旅のしおりの表紙や友達の手帳の表紙などをよく描かせてもらっていた。

わたしが通っていた中学と高校は一貫校だったため、学園祭は6学年が全勢力を尽くす一年で最も大きな行事のうちの一つだった。その学園祭の顔にもなる広報ポスターは毎年中学1年生から高校3年生までの全学年からの応募制で、全校生徒からの投票によって最後の一枚が決定し、学園祭当日はポスター賞としてポスターを描いた者に賞状が送られる。中学1年生のときから、自分が描いたポスターがそのポスター賞に選ばれることが夢のひとつだった。そのポスター賞に応募するのは高校生が多かったため、自分も高校生になったら絶対に応募する、と決めていた。

通っていた高校の正門

高校2年生のときに、前年のポスター賞を取っていた、同じ美術部の先輩と戦って、念願のポスター賞に選ばれた。印刷の関係上、白を含めた3色しか使えないため、自分にとってもお気に入りで、全校生徒が好みそうな色を選び、細部にもとことんこだわった。そのこだわりもあって、ポスター賞に選ばれたときはとてもとても嬉しくて、高校生活の目標が一つ叶った瞬間だった。自分でもこうやって多くの人に自分の作品を見てもらって、評価してもらえることがわかって嬉しかったのだ。

そしてその翌年の夏にも、同様にポスター賞応募期間が始まった。自分が最高学年になり、良きライバルだと思っていたその美術部の先輩は卒業してしまったその年には、自意識過剰になっていた自分がいた。ポスター賞に選ばれるかどうかはあまり気にしなくなっていたのだ。というのも、なぜか、きっと今年も自分のポスターが選ばれるだろうと思っていたのだ。だから他の応募者がどんなデザインでどんなこだわりをもって自分のポスターを出してくるかということを全く気にしていなかった。とくにかく去年の自分の趣向からどう変えるかということばかり考えていた。きっと自分が選ばれるに違いないから、目立つ部分の絵に集中して、他の部分はそれなりに描く程度でいいかな、と大切な「学園祭」という文字の部分を描くことに少し手を抜いた。

完成したポスターを生徒会に提出して、いよいよポスター展示期間になった時、二つ下の学年で同じ美術部の後輩も応募していたことに驚いた。彼女は普段から部内でも重宝されていた人材で、わたしのことを慕ってくれるかわいい後輩だった。そんな彼女がポスター賞に応募していて、しかもわたしが手を抜いてしまった文字の部分もしっかり描いていた。その彼女が、まるで去年のわたしのように、年上の先輩に負けないようにと細部にこだわりながら自宅でポスターを描いている姿が目に浮かんで、彼女のポスターを見たときに少し妥協をした自分にすごく後悔をしたし、同寺に恥ずかしさも感じた。ゴールが見えると自分の力の100%を出さずに80%くらいの力で挑む自分がいることを知ってはいたが、はじめてその気性が露呈して悔しい思いをした経験だった。

恥ずかしい思いと悔しさを抱きながらハラハラしていたポスター賞の投票期間が終わり、その年のポスター賞もわたしがいただけることになった。それはおそらく絵のインパクト性と、全校生徒の趣向をわたしが把握していたからだと思う。もちろん頑張って描いたつもりはあるし、定められた期間内で描くということに関しては自分でもきちんとやったつもりだった。しかしその年のポスター賞には十分に喜べない自分がいた。

人生には妥協もつきものだと言う人もいる。妥協が必要なときもあるのだと思う。けれども、妥協をしたときのあの恥ずかしさと悔しさを考えたら、妥協をしない方が自分自身に納得できることは確かではないだろうか。

あの高校生活から年月が経った今、何に対しても常に妥協せずに過ごしているとは言い切れない。だけど自分がたどり着きたいところまで努力しなくてはならないとき、絶対に妥協をしない自分でありたい。あのときの経験を活かしたいから。

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