あの犬

Yusuke Wada
exploring the power of place
4 min readAug 10, 2016

僕の部屋には犬がいる。犬といっても、ぬいぐるみの犬だ。伏せの格好をして、ちょっとふてくされた顔をしている。こんな犬ともうかれこれ16年間も付き合ってきた。そんなものは他にない。でも、なぜよりによってあの犬なのだろうか。

あの犬と出会ったのは確か保育園の年長さんくらいの頃。家族で旅行へ出かけた時、宿泊先のホテルにあったぬいぐるみ屋さんで、シロクマとイルカとあの犬の3匹を買ってもらった。その日から、僕の遊び相手はもっぱらその3匹で、一緒にお風呂に入ったり、一緒に寝たりもした。ただ、僕の記憶にはいつの間にかイルカがいなくなっており、シロクマとあの犬との思い出がほとんどになっている。その2匹との思い出の中で、最も記憶に残っているのはシロクマとの別れのシーンである。

あれは、僕が小学1年生くらいの時のことだ。コカコーラのおまけでスケートボードのおもちゃを手に入れ、それに2匹を乗せて遊ぶことが当時のマイブームだった。ある日、保育園の友達と遊ぶことになり、僕は2匹の紹介とマイブームを披露した。すると、友達がその遊びとともに僕のシロクマを気に入り、帰る頃には「シロクマが欲しい!」と言って泣き始めてしまった。僕にとってその2匹はたくさんの時間や思いを共有してきた親友で、そのうちのひとりを手放すようなものだったので、当然それに応じることはできず、「イヤだ!絶対にあげない!」と言って僕も泣き始めてしまった。見かねて、僕のお母さんが「2個あるんだし、ゆうすけももうお兄ちゃんなんだからあげたら?」と言って説得し、泣く泣く僕はシロクマを友達に譲った。“お兄ちゃんとして”譲ったのだが、現実の僕はやはり幼かったので、その後も随分と長い時間シロクマを譲ってしまったことを後悔した。このシーンを書いていると、今でも少し悲しくなる。

こうして、3匹いた僕の遊び相手は、あの犬1匹になった。たくさん遊んだあの犬とも、成長するにつれて一緒に遊ぶことはなくなり、幼い頃ほど意識をすることもなくなっていった。それなのに、いまでもあの犬は変わらず僕のそばにいる。3年前の春、大学進学にともない一人暮らしを始めることになった時、なぜかおもちゃの中で唯一あの犬だけは実家から持ち出してきたのだ。そして今日も、棚の上にいる。

あの犬についていろいろ思い返してはみたが、なぜこれほど長い間一緒に過ごして来たのかやっぱりよくわからない。でも、なぜかいつもあの犬だけは離さないのだ。不思議だ。なんだよ、おまえ。その顔、どういう感情なんだよ。今見ると、ちょっとイラっとした。今となっては、別に宝物だというわけでも、友達とか家族みたいなものだという想いがあるわけでもない。もはや意識すらしていないような関係だが、いなくなられては困る。そんな感じなのだ。

ただ、こうして文章を書いているうちに、1つだけ気づいたことがある。あの犬を見ると、これまでの想い出が次々と浮かんでくるということである。今まで話してきたようなあの犬に直接関わる思い出だけでなく、僕があの犬を“連れてきた”時間の多くのことについても。もしかすると僕は、写真や動画には残らない自分自身の物語を無意識のうちにあの犬に記録していたのかもしれない。そして、自分のこれまでの人生を「大切なもの」として守っていくために、あの犬を離さず持っていたのかもしれない。当然のことだが、あの犬が話すこともなければ、動いたり、表情を変えたりすることもない。でも、他の誰も知らない僕の物語を、あの犬だけが僕に教えてくれるのである。

僕にとって、あの犬はこれからも「あの犬」なのだろう。大切にしているわりには名前もないし、あの犬のことを誰かに話したりすることもない。でも、それくらいがちょうど良いんだと思う。想いは言葉や形にできるほど簡単ではないし、他人と分かち合えるものでもない。だから、「あの犬」に名前は要らないし、誰かに話す必要もないのだ。とは言ったものの、ちょっと冷たすぎるかな、と思ったので、こうしてあの犬の話をしてみたのである。

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