レンズ越しの距離

2年半前、叔父が入学祝いに一眼レフを買ってくれた。canonのEOS80Dという機種で、母のお下がりの古いデジカメを使っていた私にとって初めての本格的なカメラだった。それ以来、ことあるごとに撮影しながら徐々に操作にも慣れていったが、どうしても拭えない違和感が私をつきまとっていた。ポートレートを撮影するとき、モデルにリラックスしてもらうためにその場の雰囲気を盛り上げる必要がある。私の前でポーズを決めるモデルに対し、「いいね〜!」「その表情好き!」なんて声をかけながら、その形式的な会話に違和感を抱くのだ。モデルの表情を引き出すという最初から目的が決まっているコミュニケーションが、どこか心地悪かった。徐々にモデルの撮影に苦手意識を抱くようになってしまい、最近はポートレートを撮っていない。

一方で、ブライダルカメラマンとしての役回りは私によく合っていた。去年の夏から1年間、みなとみらいにある結婚式場でカメラマンとして働いていたのだが、ブライダルカメラマンはその存在を消すために、頭から足元まで全て黒い姿でいなければならない。黒髪は必須だし、黒いスーツの中に着るブラウスも黒で揃える必要がある。あくまでも主役は新郎新婦と列席者であり、私たちは目立たぬよう黒子に徹しながら、人生における大イベントを写真に収める。そのときに重要視されるのは、いかに自然な表情やふるまいを収められるかという点だ。両目の大きさの違いや分け目などをふまえて、どのような角度から撮った方がよりよく写るのかを考えることもある。私を意識しながらポーズを決めるモデルではなく、カメラマンである私の存在をまるで感じずに自然なふるまいをする人々がいる光景を収めるのが楽しかった。結婚式場以外にも、修学旅行や運動会、LIVE、スポーツのカメラマンなどがこれに当たるのだろう。

私は海外へ行くときに必ず一眼レフを持っていくが、まったく知らない通行人や道端の人にカメラを向けてしまいがちになる。普段から基本的に「撮りたい」と感じた光景を写真に収めるのだが、海外だとそこに人が写っていることが多い。それはブライダルカメラマンとしての役回りが楽しいと感じた理由と一緒で、どうしてもそこにいる自然体の人たちも含めた光景を写真に収めたくなる。今や私たちにとって、人にカメラを向けることは日常の一部となった。しかし、人にカメラを向けることは、ときに暴力的になってしまう。どうしても撮影者が支配力をもってしまい、被写体に有無を言わせないような、力関係が生じてしまう。それでも海外に行くと、「もう二度と会わないだろうから」「どうせ日本に帰るから」といった気持ちが生じて、見知らぬ人に突然カメラを向けることに罪悪感を抱きながらも撮ってしまうのだ。それに、「現地人にとって私は外国人だから」という免罪符で許されるような気にもなってしまう。幸い、これまで一度もトラブルになったことはないが、その暴力性についてはこれからも考え続けねばならない。

ベトナムのサパで撮った一枚。目の前でカメラを向ける私に目もくれずゲームを楽しんでいた。

カメラを向けると、そこに写る人との関係性を考えざるをえなくなる。カメラを通して関係性や心の距離を再認識することもあるし、いつ、どのような状況で誰を撮るのかによってカメラを向けることの意味合いは変わる。限られた撮影時間のなかで無理にでもコミュニケーションをとる必要があるモデル撮影ではなく、黒子としての撮影のほうが合っていると感じたのは、自分のペースで相手との距離を縮めたり、少し離したりできるからなのかもしれない。それは海外で見知らぬ人を撮るときも同じで、カメラを通して異なった環境で育った人たちとの距離感をはかりたいのかもしれない。カメラは私と目の前の人たちとをつなぐひとつのメディアなのだ。

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