レールの終わりに
骨折をして、中学以来の松葉杖生活になってしまった。もともと1週間ほど海外に行く予定だったが、全部無くなってしまったため、まるまる1週間時間ができた。ふさぎ込みがちになってしまうため、時々は外にでるものの、松葉杖でまちを歩き回るのは疲れてしまうため、基本的に家の中で1人ぽつんとベッドで寝ていることが多くなった。
YouTuberをひたすら視聴することにも疲れ、珍しく買った小説も読み終わると、ぼんやりと上の空で考え事をするほかない。そろそろ色々と考えなくてはいけない時期になったため、ある意味でこのケガは自分を捉え直す好機なのかもしれないと自分を無理に納得させる。
大学3年という、今後の進路を考え無くてはならない時期にきた。あと1年半で、「学生」というステータスが無くなってしまう。勝手気ままに生きてきた自分が、きちんと生きていけるのだろうかと不安になることがある。
学生時代は、ある程度がレールが敷かれていた。自分で意思決定したように見えて、最初から1つしか選択肢が無かったり、外的要因が働いて決定したりするものだ。もちろん、レールを批判するつもりはない。レールに乗ることが悪いとは思わないし、むしろレールに乗ってたほうがいいこともある。自分は決してレールの上に必ずしも乗っていたとは考えないが、それでも、敷かれたレールは自分のためになって、大きく資する場面があった。
ところが、自分の将来を決定するという場面になって、一気に選択肢が広がった。それは広がっているように見えるだけで、実際は3つぐらいしか選択肢が無いのかもしれない。でも、たとえ3つだって、自分で意思を持って下す決断だろう。これからこういう意思決定が増えていくのだと思うと、ワクワクするのと同時に、多少気が重くなっていく。
学生のまま、自由気ままにいることができたらな、と時々思うことがある。でもそれには終わりがある。「終わり」があるというのはとても幸せなことなのかもしれない。終わりがあることで、次へ前向きに進むことができる。だから今も味わえたし、未来のために頑張れた気がする。「卒業」という概念は素敵だ。
昔から終えるということが苦手だった。「けじめをつける」という表現が正しいかどうかは分からないが、けじめをつけるのが苦手だった。小3から続けていたピアノは中2,3の頃にフェードアウトさせてしまった。おそらく、受験の忙しさを言い訳にしたのだろう。自分の中で納得させて、勝手に終わらせてしまったため、未だにピアノの先生と会うときは少し後ろめたい気持ちが残っている。
自分の中で「辞めようかな、辞めまいかな」と悩んでいて、いざ辞めようと決めても、言えないという若干の気の弱さに起因しているものが多いのかもしれないが、それにしても「終わりを決める」ということが苦手だ。
先日、一緒にランチをした社会人20年目の大先輩に、「社会人の成長は、どれだけ自分で意思決定ができるかどうかにかかっている」と言われた。自分が何人のチームを率いていようが、大きい小さいとかではなく、どれだけ自分で意思決定ができるかが大切だと言っていた。
就職だったり、引っ越しだったり、なにかを「始める」ことだけではなく、「終わらす」ことも意思をもって決定しないといけないのだろうと気づくまでに、少々時間がかかったが、少しずつ自分の整理をしながら、社会人への準備を進めている。
ちょっと頭が煮詰まったので、外に出てみることにした。松葉杖の扱いが上手くなった自分に、感動を覚えた日曜の夕方、近所のカルディで新しいコーヒー豆を買って自分へのご褒美とした。
人は松葉杖をつく僕を好奇の目で見るが、自分で決めたことを応援してくれている暖かい目を向けているような気がして、松葉杖生活も考え方1つで案外悪くないな、とも思った。