一人と独り

Izumi Iimori
exploring the power of place
4 min readJul 19, 2020

ひとり旅、ひとり映画、ひとりカラオケ、ひとり焼肉。多くの場合複数人で行なうとされているものを一人で行なうとき、このような言葉が使われる。そしてしばしば、どのレベルまでならできるのか、ということが友人たちとの間で論議の的になる。

私はこの「おひとりさま行動」に関して、昔から特に抵抗がない。小学6年生のときにひとり映画を経験し、中学高校時代の部活のない日はひとりで気ままに出かけることが好きだった。自分の時間を思いのままに過ごすことで、常に何かの集団の一人であるという感覚から離れ、自由である実感を得ることができる。誤解を招くといけないが、決して複数人でいることを好まないわけではない。誰かと時間を共有することも好きだし、一人の時間も好き。もちろんそれぞれにそれぞれの良さがある。

2020年春、私たちはステイホームを余儀なくされてしまった。家から一歩も出ない、家族以外の人とは会わない。大学の授業もオンラインになり、友人たちとの繋がりもSNSだけ。外の世界とは画面の中でしか繋がれない生活が始まった。

ステイホーム中でもなんとか人との繋がりを求めようと、私の身の回りでもオンライン飲み会が流行した。「飲み会は空間も共有してこそでしょ」、「オンライン飲み会の良さがわからない」など懐疑的な意見も耳にしたが、私はこの動きに肯定的だった。なかなか会えない人とも繋がれる上に、飲み会が終わった瞬間ベッドで眠りにつける。眠い目をこすりながらなんとか寝過ごさないように電車に乗ることも、いつもより遠いなあと感じながら最寄り駅から家までだらだらと歩くこともない。「オンライン飲み会最高!ステイホームじゃなくなってもこの流れが残るといいな」とさえ思っていた。

缶チューハイ片手にオンライン飲み会

しかしステイホームの期間が続いてくると私の心にもふつふつと湧き上がってくるものがあった。

「同じ空間で、時間を共有したい」

オンライン授業もオンライン飲み会も、初めはその新鮮さで楽しめていた部分があった。しかしこの生活も長いこと続いてくると、ミーティングの接続を切った途端訪れる孤独感が日に日に増してくる。ついさっきまで楽しく話をしていた友人たちは画面の向こう側の存在でしかなく、部屋にいるのは私一人。時間は共有していても、空間は共有できていない。突然部屋を支配する静寂が、私が「独り」だということを痛烈に教えてくれる。

夜風にあたって徐々に酔いが覚めていく駅までの道。「ああ、こんな時間に絶対太っちゃうね」と言いながらつい寄ってしまうタピオカ屋さん。まだまだ話し足りずどちらかが下車するギリギリまで話し続ける帰りの電車。今まで当たり前過ぎるがゆえにもはや意識の外にあった帰路の存在が、私にとってはとても大事だったことに気づかされる。一人になるまでのグラデーションのようなあの時間が、一人になっても私を「独り」とは思わせなかった。

眠い目をこすりながら寝過ごさないように乗っていた電車も、いつもより遠いなあと感じながらだらだらと歩いていた最寄り駅から家までの道も、それはみんなと共有していた時間の余韻に浸りながら、徐々に一人になっていく大切な過程だったのだ。

オンラインでは世界中の人とすぐに繋がることができる。随分と便利な時代だと思う反面、そのオンとオフのコントラストの強さによって、「一人」と「独り」の違いを痛感している。これまで「おひとりさま行動」に抵抗がなかったのは「独り」だと感じていなかったからであり、それは、意識せずとも人と会うことが日常の中に当たり前にあったからなのだ。人と会うことがすっかり貴重になってしまった今、誰かと同じ空間で時間を共有することを、日常の節々で欲している。

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