一瞬という時間

Michino Hirukawa
exploring the power of place
4 min readJul 19, 2018

玉響…玉が触れ合ってかすかに音を立てるの意。転じてほんの少しの間、一瞬。

たまゆら。この言葉をはじめて聞いたとき、綺麗だと思った。調べてみると、もともとは翡翠や瑠璃などの宝玉が触れ合い、かすかな音を立てる様子を表しているらしい。玉の揺れあい、かすかな音、耳を十分に澄まさないとわからない。この瞬間を発見し、美しさを見出し、言葉を与えた先人たちの感性に驚かされる。

「ゆれ」とは、きわめて一時的なのかもしれない。ある状態に対して何かの刺激が与えられ、また落ち着く。揺れのあとには、最初の何もなかったような状態に戻っているようで、実は何かが変わっていることもある。ある状態の変化の兆しに、「ゆれ」はおとずれる。科学的な根拠は知らないが、きっと揺れは永久につづくことはない。

けれども、その一瞬で、社会や人生が大きく変わることがある。

6月18日(月)午前8時3分「めちゃ大きい地震、大丈夫」

母から突然LINEが届いた。何のことについて話しているかわからず、おもむろにテレビを点ける。ニュースで流れてきたのは、大阪北部地震。震度5強を観測し、私の京都の地元の名前が上のほうに挙げられていた。両親とは数年前から離れて暮らしている。だからLINEで何度かやりとりすることになった。「無事そうでなにより」「余震が怖い」こんなメッセージを送りあっていたが、まだ状況に対して実感できていなかった。ついに大きな地震が関西の地域で起こった、ただ事実を認識した感覚にちかい。

いつもの日常、だけど違う、そんな1日がはじまる。何もなかったように大学へ向かい、電車に乗り込む。駅での電光掲示板は、関西の地震の影響での遅延が起こっていた。関東の交通機関も乱れるのかと思いながら、電車の席に着く。すると携帯のメッセージ履歴には、母のみならず祖父も参加しはじめる。自分の身で経験したからわかる、何を備えておけ、そんな会話がつづいていた。またTwitterを確認してみると、タイムラインには関西に住む知り合いが、大きな揺れと大幅な遅延に怯えたツイート、いたるところで心配する声が投げかけられていた。ネットのニュースには、明らかになる被害状況の様子が淡々と述べられる。このような状況が目に飛び込んでくるにつれて、心にモヤモヤがかかりはじめてきた。

大学ではいつもの友人たちに出会う。「地元って関西じゃない?地震大丈夫?」そんな言葉を何度かかけられると、「うん、大丈夫やったみたい」と返事していた。本当に無事だったのだが、同時に「きっと、これらかも大丈夫だと」と自分に言い聞かせていた。携帯を開く頻度も増え、今後より大きな地震がくる可能性があったり、非常対策グッズの一覧表も流布されたり、日本全体が不安な様子にいることが感じられる。このとき、役に立ちそうな情報をできるだけたくさん家族に転送していた。家族だけではない、関西に住むたくさんの友人たちにも無事を確認するためにメッセージをする。久々に連絡する機会がこのような形になってしまった。一本の線で、ただ無事を祈ることしかできない。気持ちだけが変に高揚し、心は落ち着かないまま1日を終えた。

「ゆれ」という一瞬。それは永久的につづくことがない時間で、儚さをもともなう。ある人は音として、光として、色として、たくさんの瞬間に意味を見つけてきた。そこに言葉を与えることもあれば、芸術という文脈で表現することもある。でも「ゆれ」の一瞬は、人の生活や心の状態を変えてしまう。平常の状態から離れたとき、普通の生活が当たり前でなくなったり、他者をより愛おしく思えたりする。

この一瞬に身を置くとき、私たちは「生きている」と実感する、また1つの手がかりであると知ることになる。玉響という、微かな時間のなかに。

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