不思議なハコ

Narumi Sato
exploring the power of place
5 min readJun 10, 2016

昨冬のことだ。私は念願だった北欧の国々へ旅に出たのだが、少しでも安く航空券を抑えるべくモスクワにあるシェレメチェボ空港を行き帰りともに経由することとした。

どうせならトランジットでモスクワに留まる時間を長めにとって、モスクワ観光もしてしまおうと考え、帰り便はフィンランドからモスクワに現地時間23時に到着して、翌日の21時にモスクワを発って日本へ向かうように調整した。単純に計算すると22時間もモスクワを満喫できるのだ。

しかし恐ろしいことに北欧旅で頭がいっぱいになっていた私はロシアへ入国するのに必要なビザを申請し忘れていた。気づいたときには時すでに遅し。私は単純に計算してしまうと22時間も空港に閉じ込められることとなった。

シェレメチェボ空港内にあるお土産屋さんにて

今回利用するシェレメチェボ空港はターミナルがAからFまであり、自分がどこにいるかわからなくなってしまうほどに複雑でやや大きめの空港だった。さすがに寝る場所にはこだわりたかったので、空港に到着するや否や少しでも居心地のよさそうなイスを求めて探し歩いた。しかし絶望的なまでにどのイスにもしっかりと手すりが付いており、イスを使って横になることは許されていなかった。

そろそろ日が変わる。大荷物を持ちながらとぼとぼと歩いていると、ガラス張りの部屋のようなものが突如目の前に現れた。ガラスで区切られただけなので中は丸見えで、部屋と呼んでいいのかもわからなかったが、一部分だけガラスが張られていないそこは、その部屋の入り口でしかなかった。私はこの部屋をハコと命名した。そしてこの謎のハコの中では、10名ほどの“仲間”が横になっていたのだった。

翌日の昼ごろに撮影したハコ

そのハコにたどり着いたのは午前1時ごろで、私は体力と眠気の限界を感じながら、頭の働かないまま足を踏み入れていた。空港泊を心配し「できる限り日本人と一緒にいなさい」とLINEをくれた母の助言に従おうとする意識だけはあった。私のものと同じくらい大きなバックパックを身体の横に置いて寝転がっていたアジア人の男性を見つけたので、その男性の方へ向かおうとした時だった。「そんな隅へ行かないで私の隣で寝ていいわよ、クッションを使いなさい」そう声をかけてきたのは、少し肉つきがよく、度の強いメガネをかけた白人の女性だった。

どうやら話を聞いていると、そこにいる約半数はトランジットで空港に泊まっており、もう半数はその謎のハコの住人だった。(その後確認したところ、シェレメチェボ空港での滞在は一応違法ではないようだった。)確かにハコの角には、生活感満載の歯ブラシや折りたたみ椅子、そしてハコの中だというのにテントが建てられていた。私に優しく接してくれた彼女は、テントから出てくる男性を私に紹介してくれた。初めて訪れた異国の地にひとり、壁なんてない、カーペットなんてない、謎のハコの中で、私にようやく居場所を与えてくれた彼らはハコの住人だった。

ハコの住人の私物

ハッと気付くと私はそこで横になっており、太陽の光がまぶしく差し込んでいた。私がお世話になった彼女に話し掛けようと横を見ると、姿はなかった。昨晩私は何をしていたのだろうか、ホームレスの友人たちと語らったのは夢だったのだろうか、キョロキョロしていた私の頭を見覚えのあるクッションが支えていた。

私の名前を優しく呼ぶ声が聞こえて、6割ほどしか開けられていない目を向けるとそこにはアジア系の男性がいた。そう、確かに昨晩、私は彼とも数時間話し込んでいた。家族のこと、恋人のこと、アジア人として生きること、趣味から研究内容、将来の話まで。自分の事を喋ることが苦手な私が、自分の全てをこのハコの中で話していた。彼はガールフレンドと一年かけて世界を旅している香港出身の人だった。「君のような日本人と友人になることができて本当に嬉しいよ。また必ず会おう」日本語にするとクサすぎる言葉を彼は私に贈り、二人して微笑んだ。

その微笑みの後ろへピントを合わせると、いつの間にか空港は賑わっていて、ハコの前を通り行く全ての人がハコの内側へ冷たい視線を送ってきていた。少し横を見るとテントの中で眠る友人をガラス越しで写真に収める人がいた。

一気に眠気が覚め、私は急に現実に戻った。ハコの中にいた私は、外からハコを眺めた時に見える自分を瞬時に想像し、鳥肌が立った。ハコの中には確かに私と素敵な友人達がいたのに、外から見たそこには何の情報も持つことができないホームレスがいるだけだった。

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Narumi Sato
exploring the power of place

音楽と旅とフィルムカメラと映画と。 「いちばん大切なことは、目に見えない」