中身の見えないカンヅメ

Yusuke Wada
exploring the power of place
4 min readJun 10, 2017

僕はまだ、中身を見たことがない。
僕に運がなかったからか、それとも僕のまちにはエンゼルがいなかったからか、理由はわからないがとにかく僕はおもちゃのカンヅメの中身を見ることなく今日を迎えている。

くちばしから食べるというスタイル、エンゼルを集めてカンヅメを当てるという企画は、なんと1967年からあるという。当時の呼び名は「チョコレートボール」で、おもちゃのカンヅメではなく「まんがのカンヅメ」だったという多少の違いはあれど、もうかれこれ50年もの間変わらず子どもたちはこのカンヅメに心をくすぐられ続けてきたのだ。国産のラジカセが初めて登場した時代の子どもから、一人一台ケータイを持ついまの子どもまで、60歳と10歳が同じ感覚で話せる話題は、もしかするとこの「おもちゃのカンヅメ」くらいかもしれない。恐るべし、チョコボール!

なぜ、時代が変わっても子どもたちはチョコボールに心をくすぐられてしまうのだろうか。美味しいことはもちろんだが、肝心なのは「当たり付き」という点である。子どもの頃はとにかく当てることに必死になる。駄菓子屋に行くたびに、当たり付きのお菓子を買ってはその場で確認し、当たりが出るまで繰り返す。もはや美味しいから買うのではない。当てたいから買うのだ。そして、もっと重要なことは当たりを「自慢できる」ということだ。同じ当たりでも、簡単に当たるものに興味はない。みんなが当てられずにムズムズしているところで当てるから良いのだ。金のエンゼルはほとんど出ないし、銀のエンゼルはたまに出ても5枚となるとなかなか集まらない。この苦労が「自慢できる」ために必要なのだ。さらに、おもちゃのカンヅメには見逃してはならない最大のポイントがある。「中身が見えない」ということだ。これがもう僕たちを強烈に食いつかせた。カンヅメの中に詰められたおもちゃをあれこれと想像し、それを手に入れたことを妄想するだけでたまらなかった。このような状況でおもちゃのカンヅメをゲットしたものは、もはやヒーローになれた。チョコボールはまさに、子どもたちの心をくすぐるポイントをしっかりとおさえていたのだ。

当然のことながらチョコボールは商品なので、生産者は「どうすれば売れるのか」ということを常に考えている。このおもちゃのカンヅメ企画はまさに生産者の仕掛けなのだ。実は、チョコボール自体はほとんど見た目も味も変わっていない。時代によって味の種類の増減はあるものの、基本的には同じだ。常に変化を続けているのはむしろおもちゃのカンヅメの方なのだ。つまり、僕たちは時代や世代を超えてチョコボールそのものというより、「おもちゃのカンヅメ」という企画と向き合ってきたと言える。チョコボールの購入にはおもちゃのカンヅメへの興味が大きく介入するのだ。とはいえ、おもちゃのカンヅメは目の前にはないので、このプロセスを踏むたびに僕たちは無意識的におもちゃのカンヅメのことを浮かべながら商品を手に取るということになる。これにワクワクすれば購入するだろうし、そうでなければ再び棚に戻すだろう。その結果売れ行きが芳しくなければ、生産者はすぐさまおもちゃのカンヅメの企画変更についての話を進めるはずだ。生産者と消費者をつないでいるものは、チョコボールそのものではなく、おもちゃのカンヅメだからである。さらに言えば、おもちゃのカンヅメを手に入れるためのエンゼル(当たり)なのである。

チョコボールの場合、僕たちは「当たり」を通して、生産者とコミュニケーションをとっているのだ。その当たりにワクワクするかどうか、その当たりの中身を見たいかどうか。チョコボールを買うという行為は、生産者に対する返答なのだ。先にも述べた通り、僕たちは50年ものあいだ、変わることなくこのやりとりを行ってきた。そして、このやりとりが続いてきたことの理由はまさに「当たり」にあるだろう。このゲーム性が僕たちとの長くゆるやかな関係を保ってきたのだ。

「中身の見えないカンヅメ」こそ、僕たちとチョコボールとのコミュニケーションを成り立たせているのだ。

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