今日が最終回だとしたら

日常の中に特別を見出す。いや、特別でなくともそのままの姿で幸せを感じることができていたはずなのに。いつからだろう、ドラマチックな展開をどこか期待してしまっている自分になってしまったのは。

深夜1時。昼間は場所を取り合うストーブの前も、今は僕だけの場所。敷居の上に座布団を置き、近くの柱にもたれて本を読む。家族は皆寝静まった。飼っている犬と猫もそれぞれの布団で寝ているのが見える。

毎年、冬は祖父母の家に帰省し過ごす。もちろん祖父母に会えることも嬉しいのだが、犬と猫に会えるのが何よりの楽しみだ。(一人暮らしをしている賃貸の家ではペットを飼うことができない。)祖父母家ではこれまでに犬7匹、猫2匹を飼っており、今は犬と猫が1匹ずつ家にいる。前に飼っていた犬が亡くなった後に、この犬がやってきた。僕が小学生に入学して間もない頃に亡くなったのだが、家族の誰よりも彼を溺愛していたのが僕だった。当時の僕自身まだ幼く、直接亡くなった場面に立ち会ったわけではなかったため、はっきりとは現実を実感していなかったように思う。その代わりに今の犬がやってきたわけだが、悲しみと嬉しさが混ざり合わず、両方際立っていた感覚は今でも思い浮かぶことがある。

なんだかんだ、この犬がやってきて10年以上経った。今では僕の記憶の中で最も長い時間を過ごしたのも彼女だ。1年に1回顔を合わすのだが、いまだに犬にどう思われているのかよく分からない。猫は毎年変わらず尻尾を立て、寄ってきてくれる。ストーブの前に座っていると、そのあぐらの中に構わず入り込んできて、そのまま眠りにつく。あまりに僕が甘やかすもんだから、いつも「こら火傷をするよ。」と祖母に持ち上げられ、小屋に戻される。問題は犬の方だ。玄関に入るや否や、すごく待っていたかのように近寄ってくる年もあれば、全く見向きもされない年もある。いまだにお前との距離はわからない。ただ、家族が寝静まった深夜。犬と猫と3人の時間は毎年変わらない。

たまに起きてくる猫の相手をしながら、本を読み進める。そんな昔のことを思い出していたらストーブに照らされた左手の甲が痒くなった。ふと犬が寝ぼけたように起き、そっと近寄って頭を出す。首回りを撫でてやるとバタッと倒れ込み、仰向けになった。「猫かお前は。」思わずそんなツッコミをした。頭を撫でてやると低い声を鳴らした。痒かったんだなきっと。手を止め本を読もうとしたら、さっと顔を起こし、何かを訴えるようにこちらを見る。しょうがないなと思い、本を置いてまた撫でてやる。勝手に満足したかのように起き上がって首を振る。毛が舞い、パジャマが毛だらけになっていた。そんなことはよそ目に、犬は目の前を悠々と歩いていき水を飲みに向かった。「やっぱし猫だな。」とツッこむ。少し重たそうに歩く後ろ姿。些細な変化だが、はっきりと目に残った。変わらない時間なんてない。なんだろう、もう会えないような気がした。お前ももう14歳か、急に考えたくない現実が実態を持って、頭の中に訪れる。水を飲んでトイレに向かったと思っていたが、気づくと犬は自分の布団に戻り、ぐっすり眠っていた。相変わらず幸せそうな顔をしている。だが、ほんの少し、寂しげな表情が目に写ってしまう。猫は呑気に爪を研いでいる。突然一人の時間に襲われたように感じ、僕も電気を消して寝ることにした。

最後の記憶だった。今度ばかりは、実感がないといったら嘘になる。ただ、もう一度だけ一緒に散歩に行きたかったなと思う。「多分、最後まで面倒を見ることができないから。」ということで、新しい犬を迎え入れることはしないらしい。今年も冬がやってくる。猫と二人の冬が。

もし、今日が最終回だとしたら。歩く犬の後ろ姿、そんなオチを考えてしまった自分が嫌いだ。

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堤飛鳥
exploring the power of place

写真はゆのさん(@_emakawa) mediumと卒プロの記録。