「何もしない」をする

Ayuna Fujita
exploring the power of place
4 min readSep 19, 2020

大学に入ってから、夏休みや春休みになると毎回のように旅に出るようになった。長いときは1ヶ月間、複数の国を周遊することもある。理由はうまくことばにならないが、取り憑かれたように旅に執着している自覚がある。旅の道中には、移動やホテルのチェックインを待つ時間など、手持ち無沙汰になってしまう時間がある。多くの人はその時間を上手に過ごせるように、あらかじめ本を用意したり携帯に映画をダウンロードしておいたりする。最近の私たちは、効率的で合理的なモノ・コトを好みがちだと思う。「ただ電車に揺られる時間」を「本を読みながら移動する時間」にしたり、「ご飯を食べる時間」を「テレビや動画を見ながら食べる時間」にしたり、一度に複数のことを並行しがちだ。

4月頃から新型コロナウイルスの影響で多くのことがオンライン化され、家にいる時間が増えた。それまでは朝から大学に通い、放課後はアルバイトやサークル活動をしていたため、家ではお風呂に入って寝るだけの生活を送っていた。しかし今では家で1日3食を食べ、家で授業を受け、家でサークル活動をしている。家にいるのも悪くないと思い始めた頃、私はあることに気づいた。「ながら作業」をしなくなったのだ。これまで、私は家での時間をできるだけ効率よく過ごせるように意識してきた。たとえば、録画したドラマはご飯を食べながら鑑賞していたし、歯磨きをしながら携帯でニュースをチェックしていた。その私が、他に何もせずただドラマを見て、ただご飯を食べ、ただ歯磨きをするようになった。それに加え、ソファに横になり、何もせずただぼんやりとするようにもなった。

「ながら作業」をしなくなった要因は、家にいる時間が長くなり時間的余裕ができたことだと思う。そうすると、私にとって非効率的な過ごし方(ただドラマを見るだけ、ただ歯磨きをするだけなど)をしてもそれほど罪悪感を抱かなくなった。「ながら作業」は必ずしも悪いわけではなくて、一度に複数のことを並行してできるほうが効率的だし、時間も節約できる。しかし、一度にひとつのことだけをするようになってから、時間の感じ方や捉え方が変わった。それまでは一瞬、一瞬に複数の事柄が平行しているイメージだったのに対し、今ではたったひとつの事柄がその内容を変えて時間の流れとともに続いているイメージだ。

効率性ばかりを求めていたこれまでの生活を振り返ると、とても生き急いでいたように思う。たとえるなら、私のなかに潜む、得体の知れないモンスターが急がせていたのだ。そのモンスターは「将来役立つ」、「いつかのために」と言い、時間を無駄にせず体を動かし続けることを強いた。そうしていないと私の気も落ち着かず、立ち止まってはいけないと考えるようになった。非効率に対してそれほど罪悪感を抱かなくなった今、また以前のような家の外にいる時間が長い生活が戻ってきたときのことを想像すると、不安になる。今は消えたモンスターが再びやってくるような気がしてならないのだ。そして、きっと私はまたモンスターの言いなりになってしまうだろう。

2019年の夏にトルコのカッパドキアで撮影した1枚

今思えば、旅こそがモンスターから離れて過ごせる時間だった。「将来役立つ」ことなんて考えず、ただ興味や好みから行き先を決め、計画をたてる。旅の最中も、ただ飛行機の窓から雲の連なりを眺め、ただ海の上で波に揺られながらぼんやりとする。効率性や合理性からはかけ離れたその時間を、実は追い求めていたのかもしれない。旅に出られない今、その時間は家の中で再現され、日常のものとなった。この「日常」がいつまで続くかはわからないけれど、もしまたモンスターがやってきたら、「何もしない」というタスクを私の生き急いだ生活に追加してみよう。

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