余白と再生
小学校の学級担任教員に「余白」はほぼ無い。
子供たちには「余白」がある。授業と授業の間の「休み時間」が余白だ。子供たちは休み時間を待ち焦がれ、授業が終わった途端に教室から勢いよく飛び出して行く。行き先は校庭だったり図書室だったりと個々の好みだが、やっと訪れた自分の時間を満喫しようと1秒でも惜しむように動き出す。そんな休み時間だが、担任にとって全く休みではない。
担任にとって休み時間は、授業の片付けだったり、授業の準備だったり、子供たちの喧嘩を仲裁する時間だったり、保護者にトラブルの様子を伝える手紙を書く時間だったり…あふれる仕事を片付けていく時間なので、休んでいる余裕など全くない。
子供たちが学校にいる間、担任には時間的な余裕はない。登校時刻から下校時刻まで一気に過ぎていく感じだ。さらに子供たちが帰った後も、「なんとか運営会」とか「なんとか委員会」とかワケのわからない会議が続いたり、〇〇大会の行事準備があったりして、気がつくと夜の7時、8時といった感じだ。その後も明日の授業準備や溜まった書類作業をしなければならない。
そんな毎日だが、実は担任にも少しだけ「余白」がある。それは「専科の時間」だ。
東京都公立小学校では、音楽と図工の専門教科担当教員が各学校にいて、担任がもつ授業のうち、週に4コマくらいは専門教科担当教員が授業をする。小学校の教員は「全科」といって、基本的に担任する学級の授業全てを担当するが、そのうち音楽と図工は持たないことになっている。つまり、担任にとっての「空きコマ」だ。だから、今日の時間割にその2教科があると、なぜかワクワクする。子供たちが休み時間を待ち焦がれるように、担任も空きコマを待ち焦がれる。
以下、教員時代の私をふりかえってみる。
専科の時間、担任としての私の仕事は、子供たちを専科教室(音楽室・図工室)に送り届けることだった。その後、自分の教室に戻ってくると、いつも力が抜けて教卓の椅子に座っていた。座りながら、いつも向いている教室内の子供の方ではなく、窓から見える校庭の木々をぼんやり眺めていた。ぼーっと、力を抜きながら。
仕事が無いわけではない。授業ごとに子供たちの成績は付けなければいけないし、学期の終わりでもない限り授業の準備は延々と続く。必要に迫られている仕事が無い場合でも、より良い授業を行うための自己研修や情報収集は教員の仕事として必須だ。教員の職にある以上、辞めるまで自己研鑽を止めることはできない。少なくとも、私はそう考えていた。
ただ、この専科の時間は誰もいない教室で一人でいられ、職員室とは違って次の仕事が舞い込む恐れがなく、気を抜いていても誰にも見られない時間だった。
校庭の木々をぼんやり眺めながら頭の中に思い浮かぶものは、授業での自分の説明の仕方、顔色が優れない子の様子、次に計画している授業の流れ…。早急にすべきことから離れ、焦りから離れ、目の前のことから離れつつ、自分の中に浮かび上がることをゆっくりと考えていた。
今思い返すと、その時の私は「常に教員であらねばならない」自分を一旦保留にしていたのだと思う。自分を教員という役割から少しだけ解放し、自らのふるまいをふりかえり、子供たちの様子を捉え直したりしていた。専科の時間という「余白」を使って、私は日々の忙しさに埋もれてしまいがちな自分の感覚を再生していたのかもしれない。ぼーっと、力を抜きながら。
「ただいまー」
この時間の終わりはいつも、子供たちが教室に帰ってきた声だった。「余白」から再生した私は、気分新たに子供たちを教室に迎え入れていた。