侵入

Kana Ohashi
exploring the power of place
4 min readJun 18, 2019

大学に向かう道すがら、お金をおろすためにコンビニに寄った。時間は、午後1時を過ぎていた。ATMの前には、誰もいなかった。いつも通りの流れで、ATMを操作する。引き出す金額を入力して確認ボタンを押すと、残高が表示された。残高の下の「明細書を発行しない」を押そうとした瞬間、突然、私の左側に男性が現れた。残高が表示されている画面が見えるのではないかと思うくらい、至近距離に近づいてきた。背筋が凍りついた。

男性は、黒いパーカーにジーンズ姿で、マスクをしていた。身長は180cmぐらいのがっしりとした体格で、160cmに満たない私からすると威圧感があった。マスクで表情がよく見えなかったが、年齢は30代後半という感じだ。「私、神奈川県警のイトウ(ここでは仮名にしておく)と申します」と言って、ポケットから警察手帳らしきものを出し、二つ折りのケースを開いて見せた。私はこれまでの人生で警察手帳を見たことがなかったので、それが本物か偽物かを見分けることができない。とりあえず名前だけ確認したが、ATMの操作がまだ途中だったことを思い出し、慌てて画面に戻り、操作を終わらせて現金を財布にしまった。その後、男性からいくつか質問をされたり、言葉をかけられたりした。私はその人に対する不信感と緊張感でいっぱいだったので、やりとりの内容を正確に覚えていない。今日は何のためにATMを使ったのか、よく使うのか、というようなことを聞かれ、最後に、「最近、振り込め詐欺が多いので気をつけてください」と言われたと思う。そして、男性は立ち去った。

私は、ざわついた気持ちのまま店を出た。果たして、あの男性は本当に警察官だったのだろうか。残高の画面だけでなく、暗証番号を入力するところも盗み見ていたかもしれない。大学行きのバス停に向かって一旦歩き出したものの、ざわつきがおさまらなかったので、店に引き返した。レジの前にいた若い男性店員に先ほどの出来事について話し、警察官が店内でそういうことをしているのを把握しているか尋ねた。すると、店員はそんな話は聞いていないと言う。彼と一緒に店内を見回すと、イートインコーナーに先ほどの男性が座っていた。携帯電話をいじっていたが、ATMで別の客が操作を始めると、立ち上がって近づいた。そして私にしたのと同じように、ATM操作中に、「次の方はこちらでお待ちください」のシールを越えて客に接近した。客は慌てて現金をATMから取り出し、財布にしまっていた。男性は、私と店員がその様子を正面から観察していることに気づいて、急いで私たちの方に向かってきた。今度は先ほどより丁寧で、マスクを外して、もう一度警察手帳を見せながら、「本物の警察官です」と言った。私は店を出て、最寄りの警察署に電話した。手帳に書かれていた名前を伝え、コンビニにその名前の私服警察官がいる可能性はあるか尋ねた。電話口の人は、明らかに苦笑している様子で、「確かに、振り込め詐欺の注意喚起で見回りをしています」と答えた。

私は、電話口で苦言を呈した。警察手帳らしき物を見せられてもまったく信じられなかった最大の理由は、彼が私のATMの操作中に、画面が見えるくらいの位置にまで、何の断りもなく突然近づいてきたことである。ATMの前の床には、「次の方はこちらでお待ちください」というシールが貼られている。ATMの操作中に、シールの位置を越えて他人が近づいてくることは、これまでの経験ではなかった。床のシールは、暗証番号や残高など、ATM入力中の自分のプライベートな情報が守られると感じられるだけの、空間的余白を生み出すことに役立っていた。あの警察官は、普通の人があたりまえに守っている店内のルールを破り、私にとっての安心感を生み出していた空間的余白に侵入したのである。本物の警察官がそんなことするはずないという気持ちになった。今となっては笑って話せるが、あの時は、あると思っていたはずの空間的余白を奪われたことで、私は一瞬、心の余裕まで失ったのである。

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Kana Ohashi
exploring the power of place

Ph.D. in Media and Governance. Associate Professor at Department of Communication Studies, Tokyo Keizai University.