信じること

Michino Hirukawa
exploring the power of place
4 min readJan 19, 2020

東京の恵比寿を、東の「えびす」としよう。これに対して、実は西にも「えびす」と呼ばれる場所がある。京都の「ゑびす神社」だ。この神社は、私の親族と少々ゆかりがある。

私の祖父は、料理人だ。今年で78歳になるのだが、今でも現役だ。ちょうど年末に、祖父の家を訪れる機会があった。いつものように話をしていると、祖父は「十日ゑびす大祭」へ行く季節がやってきたとカレンダーを確認していた。あまり馴染みのない言葉に、ふと私は、その祭りについて祖父に尋ねた。

ゑびす神社は、京都の中心街に位置している。地元民の間では、「えべっさん」の名で知られている。そして新年を迎える時期に、十日ゑびす大祭という祭りが行われる。十日ゑびす大祭とは、商売繁盛を祈願した祭りだ。屋台も立ち並び、かなりの賑わいとなる。ここでは、参拝者に福笹が授与される。ちなみに、この京都のゑびす神社から、えびす信仰の象徴である笹の形が普及したらしい。仕事柄もあり、祖父はこの笹を毎年買いに行く。なんと驚いたことに、39歳のときから、今日まで39年間お参りし続けているという。購入していた笹を、店の入口に飾っておく。それが、祖父のやりかただ。

祖父がこのような習慣を続けていたことを、私は全く知らなかった。しかも十日ゑびす大祭だけではない。他にも、いくつかのお参りごとを毎年行っていると話してくれた。まずは「愛宕山神社」。京都で一番高い山の頂にある神社で、「あたごさん」と親しまれている。ここには火の神様が祀られていて、参拝者には火難除けが期待される。3歳のときにお参りすると、一生火災にあわないと伝えられている。祖父も小さい頃に両親に抱かれながら山を登ったらしいが、記憶にないと首を傾げていた。祖父の店の厨房にある火元には、火の用心のお札が貼られている。この神社へも、もう20年以上も毎年のようにお参りしているらしい。

次に、お伊勢参りがある。全国的にも有名だ。祖父は「内宮、外宮、猿田彦神社」の3社へのお参りを、毎年欠かさない。さらに滋賀県の「立木観音」は厄除けの観音で、ここにも毎年お参りしているらしい。長い階段が象徴的であり、私も小さいときに登ったことを覚えている。そして、最初のゑびす神社と、これらふたつの神社へ、祖父は39歳のときから39年間続けていた。どうやら39歳は男の前厄であり、この年齢を出発して現在に至っていると話していた。

「なんで、こんなたくさんの神社へお参り行くん?」と、私は素朴に聞いてみた。すると祖父は、「たしかに1年を通じて色々な所へお参りしてるわ。だから健康でいられるのかも」と笑っていた。「それにしても知らんかったし、普通にすごい!」と返事をすると、「信じる人は救われる、ってのが格言でっせ」と、祖父は割烹着を身につけて厨房へと降りていった。

帰り際、店をじろじろ観察してみる。たしかに祖父が話していたとおり、福笹が店の入口に飾られていた。今まで気づきもしなかった、1本の笹。詳しく調べてみると、笹は「節目正しく伸び、弾力あり折れない、青々としている」ことから、商売繁盛を意味するようになった。祖父が商売を続けられている、ひとつの秘訣だった。

日本人にとって、神社でのお参りは馴染み深い。健康長寿、家内安全、学業成就、心願成就、祈りの数は計り知れない。ひとりの神様ではない、いろいろな神様がいる。お参りしたことで、必ずしも、自分の願いや夢が叶うわけではない。けれども、その場所には、きっと人びとの様々な想いが、深いところでつながっている。論理では説明できない、感じたり、察したりすることで成り立つ、“気”の世界だ。ただ信じるということが、人の心を奮い立たせるような力を与える。真面目に考えれば考えるほど、何故かはわからない。それが私にとって、不思議でたまらなかった。

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