制限の中の自由

Kotono Yamada
exploring the power of place
4 min readMay 19, 2020

今の世界はいわゆるピンチである。どのニュースサイトやテレビ番組を見ても、世界中に増え続ける感染者及び死者数、失業率の上昇、経済活動の停滞というネガティブな話題ばかりである。S N S上でも「自宅待機」や「外出禁止」というなんとなく誰かに抑制されている響きのある言葉で溢れていて、気が滅入ってしまう。そして知らぬ間に「うちにいる」=「制限されている」という認識が私の中に刷り込まれていた。

確かにいつでも好きなところで好きな人と会える自由は奪われた。物理的な行動範囲が狭められていることによって精神的苦痛を感じている。しかし私は自粛生活を送っている中で、むしろこの状況下にポジティブな面を探し求めた。その結果、最近久しぶりに心地よい開放感に浸っていることに気付いた。もともと空いている時間があればすぐにアルバイトや生産性のある作業で予定を埋め、隙間時間に趣味を楽しむことでしか充実感を感じられないと信じていた。「何かをしていないといけない」「忙しくないといけない」そんな不安が私の原動力となっていた。追い立てられるような日々を過ごすことによって自然と充実感を得て、自分の気持ちがなんとなく満たされていた。

そのような日々が私を残して突然消え、茫然とした。サークル、研究会、新しいアルバイトでびっしりと埋められていた予定表が真っ白になり、はじめは先が読めないことに不安感を覚えた。しかし、時間が経つとともに、思いがけず精神的な自由を感じられていることに気付いた。そしてむしろ活動的に飛び回っているときに、実は自分を制御していた言葉があることに気付いた。

1つ目はいわゆるT P Oである。電車に乗るときは当然のようにイヤホンで小さい音量で音楽を聴き、隣の人と触れないように注意しながら脇を閉めてiPhoneで映画を見ていた。T P Oという言葉の縛りから解き放れた家の中で私は好きな曲をスピーカーで聴きながら部屋の中を踊り回り、大画面とヘッドホンで映画の世界に浸ることができるようになった。もちろん、前者でも満たされていたが、誰にも遠慮することなく、自分が好きなものと完全な状態で向き合い、「好き」を最大限引き出すことがこんなにも格段と自分に幸福感をもたらすことを忘れていた。

2つ目の言葉は「自己演出」である。外出するときは自分の気分よりも会う人に合わせることを優先して自分をコーディネートする。部屋着で過ごしたい日にも友達と会う約束があれば、疲れている自分を後回しにし、相手に合わせた服を選び、テンションを上げて過ごす。しかし、ずっと家にいる今では、合わせるものがないため、その日の気分で過ごせる。疲れた時にはゆったりとした生地に身を包み静かに1日を過ごし、気分をあげたい時には気が引き締まるような服とメイクをしてみる。何もかも自分の気持ちが赴くままで良く、迷う必要がない。そうなると、服選びの時間が短縮されるだけでなく、精神的にも時間的にも解放された気分になる。

家以外で私は無意識のうちに「T P O」と「自己演出」という言葉にかなり振り回されていた。外で過ごす時間が多かったあまり、自分にとって家がどれほど「自由でいられる場所」なのかを忘れていた。家は私をウィルスだけでなく、これら2つの言葉の無言の圧から守ってくれる場所だったのである。

この一ヶ月で思わぬ再発見があった。

好きなものを素直に選び取ることによって自然と高揚感とエネルギーが湧き、自分の気持ちが真に満たされる。

こんな当たり前のことをいつから忘れていたのだろうか。子供の頃に大好きだったお菓子を偶然見つけて久しぶりに頬張ったような気持ちだ。そしてそれが一気にもたらす幸福感は想像以上のものであった。この先も時々口にすることを忘れてはいけない。そんな思いが強く湧いてきた。

外出する頻度が増えてきた時においてもこの気持ちを忘れずに心に刻み、自由とTPOとの適度なバランスを保ちながら好きなものを選び取る方法を探っていきたい。

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