名のない距離

少し昔、私の通学路には一軒家を改装したカフェがあった。駅から少し離れた場所にある、こじんまりとした佇まいのお店。店内は2人がけの椅子とテーブルが3席あるほどの広さで、木目の床と白い壁に囲まれた落ち着く空間だった。オーナーさんの焼くこだわりのシフォンケーキの細かな気泡が均一で美しく、どこか馴染みのある味だったことを覚えている。シフォンケーキもさながら、ケーキに添えてあるさっぱりとした生クリームが私のお気に入りだった。でも、お気に入りになったのはここの味だけではない。みどりがいつもいたからだ。

オーナーさんの飼っていた犬のみどりは、茶色のレトリバーだ。朝から夕方まで、通学路に面したカフェのテラスにいて、私が通る時には大体突っ伏しながら寝ているか、表通りを通る人々を観察しているか、のどちらかだ。好奇心は旺盛で、人が近づいてきたら「あっ!こんにちは」という風に身体を起こして、しっぽを振りながら近づいていく。そんな日もあれば、「あ、今日はちょっと疲れてるんで」と言わんばかりに、人が近づいてもだんまりして表通りの人間観察を続けていた日もあった。カフェにお客さんがいる時には、トコトコと中に入って来てお客さんの足元にちょこんと座り、安心できるお客さんだと分かると、その場で伏せて目を閉じる。何かテラスの方で気になる物音がするとハッと起きて確認しに行き、また足元へ帰ってきて眠る。みどりは、自由で気まぐれだった。

当時みどりの年齢は聞かなかったけれど、人をみる時の柔らかく鋭い目線、何かを知っているような目つきと、いつも付いている目やにを見て、自分よりも歳上なんじゃないかと感じることがあった。だから、高校生に頃の散歩中にみどりに会った時は、立ち止まって弱音を吐いた事もある。飼い主でも常連でもない私が、犬に長く話しかけているのを見られるのは恥ずかしかったから、人通りが少ない休日に話しかけてみた時は「大丈夫だよ」と左手にそっと顔を近づけてくれたのを覚えている。それ以来、頼れる友人のような先輩のような何かを感じるようになった。ただ、休日の関係性と平日のそれはちょっと違った。犬に長々と話しかけているのを見られる事が恥ずかしい人通りの多い平日は、仲良くないフリをしていたのだ。みどりも始めは私が通るたびにしっぽを振ってくれていたけれど、微笑んで通り過ぎてしまう私を見て「今日は構ってくれない」と認識したみたいだった。次第に平日の私は、みどりにとってただの通行人になった。それでも人の少ない休日は変わらず、しっぽを振って呼び止めてくれたり、カフェの足元に寄ってきて寝ていたりした。

不思議な距離感に感じるけれど、当時のみどりと私はそういうものだった。兄弟や先輩でもなく、よっ友でもなく、ご近所さんでもない、近くて遠い距離感。一言で簡単に名前はつかない。でも、時々交わす会話での、みどりとのその距離感が心地よかった。休日にカフェに行くことと、休日にしっぽを振って呼び止めてみる事だけが「会いたい」のサインだった。

休日のみどりを撮った写真。

あれから何年かが経ち、みどりが引っ越してからもう何年かの月日が流れた。たまにあの場所を通ると、目やにを付けたみどりが眠たそうに通行人の人びとを目で追う様子を思い出す。穏やかで憂い、何かを見据えているような表情と、子どものような仙人のような雰囲気。オーナーさんのSNSを通じて元気そうな様子をたまに見ると、みどりはカフェの看板犬を引退した後も変わらずのびのびと暮らしているようだ。引っ越し先もそう遠くはないので、会おうと思えば会えるのだけど、なんとなくもう会わないかもしれないんじゃないかとも思う。でも、ふと思い出す時には温かい気持ちになるからそれだけでいい。むしろ、そんな名のない距離感がずっと続くように願ってしまう。

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